孫子 / 火攻篇
時者,天之燥也。日者,月在箕、壁、翼、軫也。凡此四宿者,風起之日也。
書き下し
時とは天の燥けるなり。日とは月の箕・壁・翼・軫に在るなり。凡そ此の四宿は、風の起こるの日なり。
現代語訳
時とは、天候が乾いていることである。日とは、月が箕・壁・翼・軫の四つの星宿にかかる日である。これら四つの星宿の日は、風が起こる日である。
解説
火攻めを仕掛ける条件を、天候と暦で具体的に指定している。星宿による日取りは現代から見れば根拠に乏しいが、注目すべきは孫子が条件を「観測できるもの」に落とし込もうとした姿勢である。乾いているか、風が吹くか——当時知り得た手段で先を読もうとした。占いを排して人から情報を取れと説いた孫子が、気象については当時の天文知識に頼っている点も興味深い。仕掛けどきを勘に委ねず、外部条件として定義しようとする発想そのものが、いまも有効である。
この章句が説くこと
火攻条件天候タイミング観測
関連する章句
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『長短経』水火火を行うには必ず因有り〔姦人に因るなり〕、烟火素より具う。火を発するに時有り、火を起こすに日有り。時なる者は、天の燥なるなり。日なる者は、宿の箕・壁・参・軫に在るなり。凡そ此の四宿なる者は、風起こるの日なり〔蕭世誠云う「春の丙丁、夏の戊己、秋の壬癸、冬の甲乙、此の日に疾風猛雨有るなり。居りて太乙を勘うるに、中に飛鳥十精有り。風雨の期の如く、五子の元運の式、各々其の時を候い、火を用うべし」と。故に曰く「火を以て攻を佐くる者は明らかなり」と。何を以て之を言う。昔、楊□、桂陽の賊と相会す。□は皮を以て大排囊を作り、石灰を以て囊中に内れ、車上に置き、火燧を作りて、馬尾に繋ぎ、因りて上風より、排囊を鼓して灰を吹く。群賊目を眯す。因りて馬尾を焼き、賊陣に奔突せしむ。衆賊奔潰す。此れ火を用うるの勢いなり。殷浩北伐す。長史江逌、数百の鶏を取りて長縄を以て之を連ね、脚に皆火を繋ぐ。一時に駆放し、群鶏羌の営に飛散し、営皆燃ゆ。因りて之を撃ち、姚襄退走す。此れ火を用うるの勢いなり。李陵、大沢の草中に在り。虜は上風より火を縦つ。陵は下風より火を緩む。此れ火を以て火勢を解くなり。吾聞く、敵門を焼かば、火滅して門開かんことを恐れ、当に更に薪を積みて火を助け、火勢をして滅せざらしむべし、と。亦た火を解くの法なり。〕
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孫子・火攻篇火発して其の兵静かなる者は、待ちて攻むる勿かれ。其の火力を極め、従う可くして之に従い、従う可からざれば則ち止まる。
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『墨子』非攻下今、夫の師なる者の相い不利を為す者や、曰く、將、勇ならず、士、分たず、兵、利からず、教、習わず、師、衆からず、卒、和せず、威、圉がず、之を害すること久しからず、之を争うこと疾からず、之に孫うこと强からず、心を植うること堅からず、與國の諸侯、疑う。與國の諸侯、疑えば、則ち敵、慮を生じて意、嬴らん。
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『墨子』經說上故。小故は、之れ有るも必ずしも然らず、之れ無ければ必ず然らず。體なり、端有るが若し。大故は、之れ有れば必ず然ること無し、之を見て見を成すが若し。體は、二の一、尺の端の若きなり。知材。知なる者は、知る所以なり。而して必ず知る、眀の若し。慮。慮なる者は、其の知を以て求むる有るなり。而して必ずしも之を得ず、睨るが若し。知。知なる者は、其の知を以て物に過り、而して能く之を貌るなり。見るが若し。恕。恕なる者は、其の知を以て物を論じ、而して其の之を知るや著し。眀の若し。仁。己を愛するは、己を用うるが為に非ず、愛の焉に著しきに若かず。眀の若し。義。志、天下を以て芬と為し、而して能く之を利す。必ずしも用いられず。禮。貴き者は公とし、賤しき者は名とす。而して倶に敬僈有り、等しくして論を異にするなり。行。為す所、名を善くせざるは行なり。為す所、名を善くするは巧なり、盜を為すが若し。
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『墨子』七患今、其の子を負いて汲む者有り、其の子を井中に隊とせば、其の母は必ず従いて之を拯わん。今、嵗凶に、民饑え、道に餓うるは、此の疚み、子を隊とすより重し。其れ察する無かる可けんや。故に時年、嵗善ければ、則ち民は仁にして且つ良し。時年、嵗凶なれば、則ち民は吝にして且つ惡し。夫れ民に何の常か之れ有らん。為す者寡く、食らう者衆ければ、則ち嵗に豐なること無し。故に曰く、「財足らざれば則ち之を時に反り、食足らざれば則ち之を用に反る」と。故に先民は時を以て財を生じ、本を固くして財を用う、則ち財足る。故に上世の聖王と雖も、豈に能く五榖をして常に收まらしめて、旱水をして至らざらしめんや。然れども凍餓の民無き者は、何ぞや。其の力むること時に急にして、自ら養うこと儉なればなり。故に夏書に曰く「禹に七年の水あり」、殷書に曰く「湯に五年の旱あり」と。此れ其の凶餓に離るること甚し。然れども民の凍餓せざる者は、何ぞや。其の財を生ずること密にして、其の之を用うること節なればなり。
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『墨子』魯問子墨子、公尚過を越に游ばしむ。公尚過、越王に説く。越王、大いに説び、公尚過に謂いて曰く、「先生、茍くも能く子墨子をして越に於いて寡人を教えしめば、請う、故吳の地、方五百里を裂きて以て子墨子に封ぜん」と。公尚過、許諾す。遂に公尚過の為に車五十乗を束ね、以て子墨子を魯に迎えて曰く、「吾れ夫子の道を以て越王に説く。越王、大いに悦びて過に謂いて曰く、『茍くも能く子墨子をして越に至りて寡人を教えしめば、請う、故吳の地、方五百里を裂きて以て子を封ぜん』と」。子墨子、公尚過に謂いて曰く、「子、越王の志を觀るに何若。意うに越王、将に吾が言を聴き、吾が道を用いんとせば、則ち翟、将に往かんとす。腹を量りて食い、身を度りて衣し、自ら羣臣に比せん。奚んぞ能く封を以て為さんや。抑そも越、吾が言を聴かず、吾が道を用いずして、我れ往かば、則ち是れ我れ義を以て糶るなり。之を糶るに鈞しくんば、亦た中國に於いてするのみ。何ぞ必ずしも越に於いてせんや」と。