修証義 / 第五章 行持報恩
謂ゆる諸佛とは、釋迦牟尼佛なり。釋迦牟尼佛是れ即心是佛なり。過去現在未來の諸佛共に佛と成る時は、必ず釋迦牟尼佛と成るなり。是れ即心是佛なり。即心是佛といふは誰といふぞと、審細に參究すべし。正に佛恩を報ずるにてあらん。
新字:謂ゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は、必ず釈迦牟尼仏と成るなり。是れ即心是仏なり。即心是仏といふは誰といふぞと、審細に参究すべし。正に仏恩を報ずるにてあらん。
書き下し
謂ゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は、必ず釈迦牟尼仏と成るなり。是れ即心是仏なり。即心是仏といふは誰といふぞと、審細に参究すべし。正に仏恩を報ずるにてあらん。
現代語訳
いわゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏である。釈迦牟尼仏とは、この心がそのまま仏であるということである。過去・現在・未来の諸仏が、みな仏となるときには、必ず釈迦牟尼仏となるのである。これが、この心がそのまま仏であるということである。この心がそのまま仏であるというのは、誰のことを言っているのかと、細やかに参究しなさい。それこそが、まさに仏の恩に報いることであろう。
解説
修証義の結びである。即心是仏は、この心がそのまま仏だという禅の言葉だが、道元はそれを分かった気になって安心することを許さない。では、その心とは誰の心のことか、と問い返させる。答えを与えて終わるのではなく、読み手に問いを手渡して終わる構成である。そして、その問いを細やかに究めていくこと自体が、恩に報いることだと言う。教わった言葉を自分の問いに変えて考え抜くことが、学びの完成だという主張だ。
この章句が説くこと
即心是仏参究問い報恩釈迦自己
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