修証義 / 第五章 行持報恩
病雀尙ほ恩を忘れず。三府の環能く報謝あり。窮龜尙ほ恩を忘れず。餘不の印能く報謝あり。畜類尙ほ恩を報ず。人類爭か恩を知らざらん。其報謝は餘外の法は中るべからず。唯當に日日の行持、其報謝の正道なるべし。謂ゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず。私に費さゞらんと行持するなり。
新字:病雀尚ほ恩を忘れず。三府の環能く報謝あり。窮亀尚ほ恩を忘れず。余不の印能く報謝あり。畜類尚ほ恩を報ず。人類争か恩を知らざらん。其報謝は余外の法は中るべからず。唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし。謂ゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず。私に費さゞらんと行持するなり。
書き下し
病雀尚ほ恩を忘れず。三府の環能く報謝あり。窮亀尚ほ恩を忘れず。余不の印能く報謝あり。畜類尚ほ恩を報ず。人類争か恩を知らざらん。其報謝は余外の法は中るべからず。唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし。謂ゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず。私に費さゞらんと行持するなり。
現代語訳
病んだ雀でさえ恩を忘れず、三公の位を示す玉の環で恩に報いた。窮地の亀でさえ恩を忘れず、余不亭の印で恩に報いた。畜類でさえ恩に報いる。人間がどうして恩を知らずにいられようか。その報い方は、ほかの方法では当たらない。ただ日々の行持こそが、その報いの正しい道である。その道理とは、日々の命をおろそかにせず、自分勝手に費やさないように行じ続けることである。
解説
恩の返し方を問い、それは特別な贈り物ではなく日々の行いそのものだ、と答える節である。三府の環は楊宝に雀が玉環を贈った話、余不の印は孔愉が放した亀の姿が印に現れた話を踏まえる。動物でさえ恩を返すのに、という対比のあとで、道元は返し方を具体的に示す。今日という一日を、雑に扱わず、自分勝手に使わないこと。育ててくれた人への最良の恩返しは、日々を真剣に生きることだという主張である。
この章句が説くこと
報恩行持日々感謝恩返し生き方
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