修証義 / 第五章 行持報恩
此發菩提心、多くは南閻浮の人身に發心すべきなり。今是の如くの因緣あり。願生此娑婆國土し來れり。見釋迦牟尼佛を喜ばざらんや。
新字:此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり。今是の如くの因縁あり。願生此娑婆国土し来れり。見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
書き下し
此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり。今是の如くの因縁あり。願生此娑婆国土し来れり。見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
現代語訳
この悟りを求める心は、多くはこの南閻浮提に生まれた人の身で起こすべきものである。いま、このような因縁がある。願ってこの娑婆の国土に生まれてきたのである。釈迦牟尼仏にお会いできることを、どうして喜ばずにいられようか。
解説
第五章「行持報恩」の始まりである。南閻浮提は、仏教の世界観で人間が住むとされた大陸を指す。苦しみの多いこの娑婆世界は、嫌々放り込まれた場所ではなく、自ら願って生まれてきた場所だ、という見方が示されている。同じ環境でも、仕方なくいると思うか、選んでここにいると思うかで、そこでの振る舞いは大きく変わる。今いる職場や地域を、自分が選んだ場所として見直してみるきっかけになる節である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
娑婆願生主体性環境報恩因縁
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