修証義 / 第二章 懺悔滅罪
其大旨は、願くは我れ設ひ過去の惡業多く重なりて、障道の因緣ありとも。佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖、我を愍みて業累を解脫せしめ。學道障り無からしめ。其功德法門普く無盡法界に充滿彌綸せらん、哀みを我に分布すべし。佛祖の往昔は吾等なり。吾等が當來は佛祖ならん。
新字:其大旨は、願くは我れ設ひ過去の悪業多く重なりて、障道の因縁ありとも。仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖、我を愍みて業累を解脫せしめ。学道障り無からしめ。其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり。吾等が当来は仏祖ならん。
書き下し
其大旨は、願くは我れ設ひ過去の悪業多く重なりて、障道の因縁ありとも。仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖、我を愍みて業累を解脫せしめ。学道障り無からしめ。其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり。吾等が当来は仏祖ならん。
現代語訳
その大意はこうである。願わくは、たとえ私に過去の悪業が多く重なって、道を妨げる因縁があったとしても、仏道によって道を得られた諸仏諸祖が私を憐れんで、業の重なりから解き放ち、学道に障りのないようにしてくださいますように。その功徳の教えが限りない世界に広く満ちわたりますように。その憐れみを私にも分け与えてください。仏祖の昔の姿は私たちであり、私たちの未来の姿は仏祖であろう。
解説
懺悔の祈りの内容を示す節で、結びの二句がとりわけ知られている。仏祖も初めから仏祖だったのではなく、かつては迷い悩む私たちと同じだった。そして私たちも、いずれ仏祖になりうる。尊敬する先人と自分との距離を、断絶ではなく道のりとして見る視点である。偉大な先輩を仰ぎ見るだけで終わらせず、自分もその途上にいると考えることで、過去の失敗を抱えたままでも前に進む力が生まれる。
この章句が説くこと
懺悔仏祖成長可能性道のり願い
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