修証義 / 第二章 懺悔滅罪
佛祖憐みの餘り、廣大の慈門を開き置けり。是れ一切衆生を證入せしめんが爲めなり。人天誰か入らざらん。彼の三時の惡業報、必ず感ずべしと雖も。懺悔するが如きは、重きを轉じて輕受せしむ。又滅罪清淨ならしむるなり。
新字:仏祖憐みの余り、広大の慈門を開き置けり。是れ一切衆生を証入せしめんが為めなり。人天誰か入らざらん。彼の三時の悪業報、必ず感ずべしと雖も。懺悔するが如きは、重きを転じて軽受せしむ。又滅罪清浄ならしむるなり。
書き下し
仏祖憐みの余り、広大の慈門を開き置けり。是れ一切衆生を証入せしめんが為めなり。人天誰か入らざらん。彼の三時の悪業報、必ず感ずべしと雖も。懺悔するが如きは、重きを転じて軽受せしむ。又滅罪清浄ならしむるなり。
現代語訳
仏祖は憐れみのあまり、広く大きな慈悲の門を開いておいてくださった。これは一切の衆生を悟りに導き入れるためである。人間界や天上界の者で、誰がこの門に入らないでいられようか。あの三時の悪業の報いは必ず受けなければならないとはいえ、懺悔するならば、重い報いを転じて軽く受けさせてくださる。また罪を滅して清らかにしてくださるのである。
解説
第二章「懺悔滅罪」の始まりである。前章で因果の厳しさを説いたあと、ここで救いの道が示される。報いは消えないが、懺悔によって重いものを軽く受けることができる、という。罪を帳消しにする魔法ではなく、向き合い方で受け止め方が変わる、という現実的な説き方だ。失敗を隠すほど傷が深くなり、早く認めるほど立て直しが軽く済むのは、組織でも個人でも経験的に知られていることである。
この章句が説くこと
懺悔慈悲滅罪過ち救い転重軽受
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