尚書 / 仲虺之誥
德日新,萬邦惟懷;志自滿,九族乃離
新字:徳日新,万邦惟懐;志自満,九族乃離
書き下し
徳日(ひ)に新たなれば、万邦惟(こ)れ懐(なつ)く。志自(みずか)ら満つれば、九族乃(すなわ)ち離る。
現代語訳
徳が日々新しく更新され続ければ、あらゆる人々が慕い集まってくる。志が自分だけで満ち足りてしまえば、身内でさえ離れていく。
解説
徳や志は一度身につけたら終わりではなく、日々更新し続けるかどうかで人の集まり方が変わるという句である。過去の実績や評判に安住し「もう十分だ」と思った瞬間から、周囲の人は少しずつ離れていく。これは肩書きの有無に関わらず、人間関係全般にいえることだろう。家族のような近しい間柄ほど、慢心の影響は静かに、しかし確実に及んでいく。昨日までの自分に満足せず、今日も少し成長しようとする姿勢そのものが、人を引き寄せる力になる。なお、本篇は東晋期に伝わった古文尚書に属し、後世の編纂とみる説が有力である。
この章句が説くこと
日新慢心求心力
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