尚書 / 仲虺之誥
德日新,萬邦惟懷;志自滿,九族乃離
新字:徳日新,万邦惟懐;志自満,九族乃離
書き下し
徳日(ひ)に新たなれば、万邦惟(こ)れ懐(なつ)く。志自(みずか)ら満つれば、九族乃(すなわ)ち離る。
現代語訳
徳が日々新しく更新され続ければ、あらゆる人々が慕い集まってくる。志が自分だけで満ち足りてしまえば、身内でさえ離れていく。
解説
徳や志は一度身につけたら終わりではなく、日々更新し続けるかどうかで人の集まり方が変わるという句である。過去の実績や評判に安住し「もう十分だ」と思った瞬間から、周囲の人は少しずつ離れていく。これは肩書きの有無に関わらず、人間関係全般にいえることだろう。家族のような近しい間柄ほど、慢心の影響は静かに、しかし確実に及んでいく。昨日までの自分に満足せず、今日も少し成長しようとする姿勢そのものが、人を引き寄せる力になる。なお、本篇は東晋期に伝わった古文尚書に属し、後世の編纂とみる説が有力である。
この章句が説くこと
日新慢心求心力
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『正法眼蔵随聞記』巻四古人云く、奢て上賢にひとしからんと思ふことなかれ、賤ふして下賤にひとしからんと思ふことなかれと、云こゝろは、共に慢心なり、高ふしても下らんことを忘るゝことなかれ、安ふしても危からんことを忘るゝことなかれ、今日存するとも明日もと思ふことなかれ、死の至てちかくあやふきこと脚下にあり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云はく、愚癡なる人は其の詮なきことを思ひ云ふなり、此につかはるゝ老尼公ありけるが、当時いやしげに在るをはづる顏にて、ともすれば人に向ては、昔しは上臘にてありしよしを語る、たとひ而今の人にさもありと思はれたりとも、なんの用とも覚えぬ、甚だ無用なりとおぼゆるなり、皆人の思はくは此の心あるかと覚ゆるなり、道心の無きほども知られたり、是れらの心を改めて、少し人には似るべきなり、亦有る入道の、極めて無道心なるあり、去り難き知音にてある故に、道心おこらんこと仏神に祈誓せよと云はんと思ふ、定て彼れ腹立して中をたがふことあらん、然あれども道心を発さヾらんには得意にてもたがひに詮なかるべし、
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葉隠・聞書第一順境には自慢と奢りがあぶなきなり。その時は、日頃の倍(ばい)慎まねば、追ひ付かざるなり。よき時進む者は、悪しき時草臥(くたび)るるものなり。