二宮翁夜話 / 巻之五
老中某侯の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹る、翁曰、執政は政事の出る処、国家を正うして、不正無からしむるの職なるに其家僕其威をかりて、不正を行ふ者往々あり、譬ば町奉行の奴僕等、両国浅草等に出る、予が法皮を見よなどゝ罵るに同じ、国を正しうする者、家を正しうする事能はざるが如しといへども、是家政の届かざるにあらず、勢の然らしむる物なり、彼河水を見よ、水の卑に下るの勢、政事の国家に行はれて置郵伝命より速なるが如し、而て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変じて逆流となる物なり、夫老中の権威は、譬へば急流の水勢防ぐべからざるに同じ、家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し、是自然に然らざるを得ざる物なり、咎むる事勿れ。
書き下し
老中某侯(ぼうこう)の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹(そし)る、翁(おきな)曰(いわ)く、執政は政事(まつりごと)の出る処、国家を正(ただ)しうして、不正無からしむるの職(しょく)なるに其家僕(かぼく)其威(い)をかりて、不正を行ふ者往々あり、譬(たと)へば町奉行の奴僕(ぬぼく)等、両国浅草等に出る、予が法皮(はっぴ)を見よなどゝ罵(ののし)るに同じ、国を正しうする者、家を正しうする事能(あた)はざるが如しといへども、是家政の届(とど)かざるにあらず、勢(いきおい)の然らしむる物なり、彼(か)の河水を見よ、水の卑(ひ)きに下るの勢、政事の国家に行はれて置郵伝命(ちゆうでんめい)より速(すみやか)なるが如し、而(しか)て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変(へん)じて逆流となる物なり、夫(それ)老中の権威(けんい)は、譬へば急流の水勢防(ふせ)ぐべからざるに同じ、家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し、是自然に然(しか)らざるを得ざる物なり、咎(とが)むる事勿(なか)れ。
現代語訳
ある老中の家臣が、市中であれこれと横暴を働いた。横山平太がこれを非難した。翁は言われた。執政(老中)は政治の出どころで、国家を正して不正のないようにする職である。それなのに、その家来が主人の威光を借りて不正を行う者がしばしばいる。たとえば町奉行の下僕らが両国や浅草などに出て「俺の法被を見ろ」などと威張り散らすのと同じだ。国を正す者が自分の家来を正しくできないように見えるけれども、これは家の統制が行き届かないのではなく、勢いがそうさせるのである。あの川の水を見よ。水が低い方へ下る勢いは、政令が国中に行き渡るのが宿場の早馬より速いのに似ている。そして水流が急で、岩や石の壁に当たるところでは、急流が変じて逆流となる。そもそも老中の権威は、たとえば急流の水勢が防ぎようがないのと同じだ。家来に法を犯す者が出るのは、急流が当たるところで逆流となるようなものである。これは自然にそうならざるを得ないものだ。とがめてはならない。