新序 / 節士第七
蘇武者,故右將軍平陵侯蘇建子也。孝武皇帝時,以武為栘中監使匈奴,是時匈奴使者數降漢,故匈奴亦欲降武以取當。單于使貴人故漢人衛律說武,武不從,乃設以貴爵,重禄尊位,終不聴,於是律絶不與飲食,武數日不降。又當盛暑,以旃厚衣并束三日暴,武心意愈堅,終不屈撓。稱曰:「臣事君,由子事父也。子為父死無所恨,守節不移,雖有鐡鉞湯鑊之誅而不懼也,尊官顯位而不榮也。」匈奴亦由此重之。武留十餘歳,竟不降下,可謂守節臣矣。詩云:「我心匪石,不可轉也;我心匪席,不可卷也。」蘇武之謂也。匈奴終言武死,其後漢聞武在,使使者求武,匈奴欲慕義歸武,漢尊武以為典屬國,顯異於他臣也。
新字:蘇武者,故右将軍平陵侯蘇建子也。孝武皇帝時,以武為栘中監使匈奴,是時匈奴使者数降漢,故匈奴亦欲降武以取当。単于使貴人故漢人衛律説武,武不従,乃設以貴爵,重禄尊位,終不聴,於是律絶不与飲食,武数日不降。又当盛暑,以旃厚衣并束三日暴,武心意愈堅,終不屈撓。称曰:「臣事君,由子事父也。子為父死無所恨,守節不移,雖有鐡鉞湯鑊之誅而不懼也,尊官顕位而不栄也。」匈奴亦由此重之。武留十余歳,竟不降下,可謂守節臣矣。詩云:「我心匪石,不可転也;我心匪席,不可巻也。」蘇武之謂也。匈奴終言武死,其後漢聞武在,使使者求武,匈奴欲慕義帰武,漢尊武以為典属国,顕異於他臣也。
書き下し
蘇武なる者は、故の右將軍平陵侯蘇建の子なり。孝武皇帝の時、武を以て栘中監と爲し匈奴に使いせしむ。是の時匈奴の使者數ミ漢に降る。故に匈奴も亦た武を降して以て當を取らんと欲す。單于貴人にして故の漢人なる衞律をして武を說かしむ。武從わず。乃ち設くるに貴爵・重祿・尊位を以てす。終に聽かず。是に於いて律絶えて與に飲食せず。武數日にして降らず。又た盛暑に當たり、旃厚衣を以て并せ束ねて三日暴す。武の心意愈ミ堅く、終に屈撓せず。稱して曰く、臣の君に事うるは、子の父に事うるに由るなり。子父の爲に死するも恨む所無し。節を守りて移らず。鐵鉞湯鑊の誅有りと雖も懼れざるなり。尊官顯位も榮とせざるなり、と。匈奴も亦た此に由りて之を重んず。武留まること十餘歳。竟に降下せず。節を守る臣と謂う可し。詩に云う、我が心は石に匪ず、轉ず可からざるなり、我が心は席に匪ず、卷く可からざるなり、と。蘇武の謂いなり。匈奴終に武死せりと言う。其の後漢武の在るを聞き、使者をして武を求めしむ。匈奴義を慕いて武を歸さんと欲す。漢武を尊びて以て典屬國と爲す。他の臣に顯異せしむるなり。
現代語訳
蘇武という人は、もとの右将軍平陵侯である蘇建の子である。孝武皇帝のとき、武を栘中監として匈奴に使いさせた。このとき匈奴の使者がたびたび漢に降っていた。だから匈奴もまた武を降らせて釣り合いを取ろうとした。単于は、貴人でもとは漢人であった衛律に武を説かせた。武は従わなかった。そこで高い爵位、重い禄、尊い地位を用意した。とうとう聞き入れなかった。そこで衛律はまったく飲食を与えなかった。武は数日たっても降らなかった。またちょうど盛夏で、毛氈と厚い衣でぐるぐる巻きにして三日日に晒した。武の心はいよいよ堅く、とうとう屈しなかった。こう言った。「臣が君に仕えるのは、子が父に仕えるのと同じである。子が父のために死んでも恨むところはない。節を守って移らない。斧や釜ゆでの刑があっても恐れない。高い官や目立つ地位も栄えとは思わない」。匈奴もまたこれによってこれを重んじた。武はとどまること十数年。とうとう降らなかった。節を守った臣というべきである。『詩経』に「わが心は石ではない、転がすことはできない。わが心は敷物ではない、巻くことはできない」とある。蘇武のことである。匈奴はついに武は死んだと言った。その後、漢は武が生きていると聞き、使者をやって武を求めさせた。匈奴は義を慕って武を返そうとした。漢は武を尊んで典属国とした。他の臣とは別格に扱ったのである。
解説
この章句が説くこと
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史記 匈奴列伝呴犁湖単于立つ。漢光禄徐自為をして五原の塞を出づること数百里、遠き者は千余里、城鄣列亭を築きて廬朐に至らしめ、而して游撃将軍韓説・長平侯衛伉をして其の旁に屯せしめ、彊弩都尉路博徳をして居延沢の上に築かしむ。其の秋、匈奴大いに定襄・雲中に入り、数千人を殺略し、数々二千石を敗りて去る。行くゆく光禄の築く所の城列亭鄣を破壊す。又右賢王をして酒泉・張掖に入らしめ、数千人を略す。会々任文撃ちて救ひ、尽く復た得る所を失ひて去る。是の歳、弐師将軍大宛を破り、其の王を斬りて還る。匈奴之を遮らんと欲するも、至る能はず。其の冬、受降城を攻めんと欲す。会々単于病死す。呴犁湖単于立ちて一歳にして死す。匈奴乃ち其の弟左大都尉且鞮侯を立てて単于と為す。漢既に大宛を誅し、威外国に震ふ。天子の意遂に胡を困しめんと欲し、乃ち詔を下して曰く、「高皇帝朕に平城の憂ひを遺し、高后の時単于の書絶だ悖逆なり。昔斉の襄公九世の讎を復し、春秋之を大とす」と。是の歳は太初四年なり。且鞮侯単于既に立ち、尽く漢の使の降らざる者を帰す。路充国等帰るを得たり。単于初めて立ち、漢の之を襲はんことを恐れ、乃ち自ら謂ふ、「我は児子なり。安んぞ敢へて漢の天子を望まん。漢の天子は、我が丈人の行なり」と。漢中郎将蘇武をして厚幣もて単于に賂遺せしむ。単于益々驕り、礼甚だ倨にして、漢の望む所に非ざるなり。其の明年、浞野侯破奴亡げて漢に帰るを得たり。其の明年、漢弐師将軍広利をして三万騎を以て酒泉より出で、右賢王を天山に撃たしむ。胡の首虜万余級を得て還る。匈奴大いに弐師将軍を囲み、幾ど脱せず。漢の兵の物故するもの什に六七。漢復た因杅将軍敖をして西河より出で、彊弩都尉と涿涂山に会せしむるも、得る所毋し。
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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史記 匈奴列伝是の時天子辺を巡り、朔方に至り、兵十八万騎を勒して以て武節を見し、而して郭吉をして単于に風告せしむ。郭吉既に匈奴に至る。匈奴の主客使ふ所を問ふ。郭吉礼卑しく言好くして、曰く、「吾単于に見えて口もて言はん」と。単于吉を見る。吉曰く、「南越王の頭已に漢の北闕に懸かる。今単于即し能く前みて漢と戦はば、天子自ら兵を将ゐて辺に待たん。単于即し能はずんば、即ち南面して漢に臣たれ。何ぞ徒に遠く走り、幕北の寒苦にして水草無きの地に亡匿するや。為す毋かれ」と。語卒はりて単于大いに怒り、立ちどころに主客の見えしむる者を斬り、而して郭吉を留めて帰さず、之を北海の上に遷す。而して単于終に肯へて寇を漢の辺に為さず、士馬を休養息し、射猟を習ひ、数々使を漢に使はし、好辞甘言もて和親を求請す。漢王烏等をして匈奴を窺はしむ。匈奴の法、漢の使は節を去りて墨を以て其の面に黥する者に非ずんば穹廬に入るを得ず。王烏は、北地の人にして、胡の俗に習ひ、其の節を去り、面に黥して、穹廬に入るを得たり。単于之を愛し、詳りて甘言を許し、為に其の太子を遣はして漢に入りて質と為し、以て和親を求めんとす。漢楊信を匈奴に使はす。是の時漢東のかた穢貉・朝鮮を抜きて以て郡と為し、而して西のかた酒泉郡を置きて以て胡と羌との通ずるの路を鬲絶す。漢又西のかた月氏・大夏に通じ、又公主を以て烏孫王に妻はせ、以て匈奴の西方の援国を分かつ。又北のかた益々田を広めて胘雷に至りて塞と為す。而るに匈奴終に敢へて以て言を為さず。是の歳、翕侯信死す。漢の事を用ふる者以為へらく匈奴已に弱し、臣従せしむべしと。楊信の人と為りは剛直屈彊にして、素より貴臣に非ず。単于親しまず。単于召し入れんと欲するも、節を去るを肯ぜず。単于乃ち穹廬の外に坐して楊信に見ゆ。楊信既に単于に見えて、説きて曰く、「即し和親せんと欲せば、単于の太子を以て漢に質と為せ」と。単于曰く、「故約に非ず。
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史記 匈奴列伝故約は、漢常に翁主を遣はし、繒絮食物を給すること品有り、以て和親す。而して匈奴も亦辺を擾さず。今乃ち古に反し、吾が太子をして質と為さしめんと欲す。幾ど無からん」と。匈奴の俗、漢の使の中貴人に非ざるを見れば、其の儒先なるは、以為へらく説かんと欲すと、其の弁を折く。其の少年なるは、以為へらく刺さんと欲すと、其の気を折く。漢の使匈奴に入る毎に、匈奴輒ち報償す。漢匈奴の使を留むれば、匈奴も亦漢の使を留め、必ず当たるを得て乃ち肯へて止む。楊信既に帰る。漢王烏を使はす。而して単于復た甘言を肴して、多く漢の財物を得んと欲し、紿きて王烏に謂ひて曰く、「吾漢に入りて天子に見え、面相約して兄弟と為らんと欲す」と。王烏帰りて漢に報ず。漢単于の為に邸を長安に築く。匈奴曰く、「漢の貴人の使を得るに非ずんば、吾与に誠語せず」と。匈奴其の貴人をして漢に至らしむ。病む。漢薬を予へて、之を愈やさんと欲するも、不幸にして死す。而して漢の使路充国二千石の印綬を佩びて往きて使ひし、因りて其の喪を送り、厚く葬ること数千金に直り、曰く「此れ漢の貴人なり」と。単于以為へらく漢吾が貴使者を殺せりと。乃ち路充国を留めて帰さず。諸々の言ふ所の者は、単于特に空しく王烏を紿くのみにして、殊に漢に入り及び太子を遣はして来り質たらしむるに意無し。是に於て匈奴数々奇兵をして辺を侵犯せしむ。漢乃ち郭昌を拝して抜胡将軍と為し、及び浞野侯朔方以東に屯して、胡に備ふ。路充国匈奴に留まること三歳、単于死す。烏維単于立ちて十歳にして死し、子烏師廬立ちて単于と為る。年少く、号して児単于と為す。是の歳は元封六年なり。此より後、単于益々西北し、左方の兵は雲中に直り、右方は酒泉・燉煌郡に直る。児単于立ち、漢両使者をして、一は単于を弔ひ、一は右賢王を弔はしめ、以て其の国を乖かしめんと欲す。使者匈奴に入る。匈奴悉く将ゐて単于に致す。単于怒りて尽く漢の使を留む。
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史記 匈奴列伝又騎都尉李陵をして歩騎五千人を将ゐて、居延の北千余里に出でしむ。単于と会し、合戦す。陵の殺傷する所万余人。兵及び食尽き、解きて帰らんと欲す。匈奴陵を囲む。陵匈奴に降り、其の兵遂に没す。還るを得る者四百人。単于乃ち陵を貴び、其の女を以て之に妻はす。後二歳、復た弐師将軍をして六万騎、歩兵十万を将ゐて、朔方より出でしむ。彊弩都尉路博徳万余人を将ゐて、弐師と会す。游撃将軍説歩騎三万人を将ゐて、五原より出づ。因杅将軍敖万騎歩兵三万人を将ゐて、鴈門より出づ。匈奴聞き、悉く其の累重を余吾水の北に遠ざけ、而して単于十万騎を以て水の南に待ち、弐師将軍と接戦す。弐師乃ち解きて引き帰り、単于と連戦すること十余日。弐師其の家の巫蠱を以て族滅せらるるを聞き、因りて衆を并せて匈奴に降る。来り還るを得る者千人に一両人のみ。游撃説は得る所無し。因杅敖は左賢王と戦ひ、利あらず、引き帰る。是の歳漢の兵の出でて匈奴を撃つ者、功の多少を言ふを得ず、功御するを得ず。詔有りて太医令随但を捕ふ。弐師将軍の家室族滅せらるるを言ひて、広利をして匈奴に降るを得しむればなり。
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史記 匈奴列伝朕聞く、古の帝王は、約分明にして食言無しと。単于志を留めば、天下大いに安からん。和親の後、漢の過は先んぜず。単于其れ之を察せよ」と。単于既に和親を約す。是に於て御史に制詔して曰く、「匈奴の大単于朕に書を遺り、和親已に定まると言ふ。亡人は以て衆を益し地を広むるに足らず。匈奴は塞に入る無く、漢は塞を出づる無し。今の約を犯す者は之を殺さば、以て久しく親しむべく、後に咎無く、倶に便ならん。朕已に之を許す。其れ天下に布告し、明らかに之を知らしめよ」と。後四歳、老上稽粥単于死し、子軍臣立ちて単于と為る。既に立ち、孝文皇帝復た匈奴と和親す。而して中行説復た之に事ふ。軍臣単于立ちて四歳、匈奴復た和親を絶ち、大いに上郡・雲中に入ること各々三万騎、殺略する所甚だ衆くして去る。是に於て漢三将軍をして軍して北地に屯し、代は句注に屯し、趙は飛狐口に屯せしめ、辺に縁りて亦各々堅守して以て胡寇に備ふ。又三将軍を置き、長安の西の細柳、渭北の棘門、覇上に軍して以て胡に備ふ。胡騎代の句注の辺に入り、烽火甘泉・長安に通ず。数月にして、漢の兵辺に至り、匈奴も亦遠く塞を去り、漢の兵も亦罷む。後歳余にして、孝文帝崩じ、孝景帝立つ。而して趙王遂乃ち陰かに人を匈奴に使はす。呉楚反し、趙と合謀して辺に入らんと欲す。漢趙を囲み破り、匈奴も亦止む。是より後、孝景帝復た匈奴と和親し、関市を通じ、匈奴に給遺し、公主を遣はすこと、故約の如し。孝景の時を終ふるまで、時に小しく入りて辺を盗むも、大寇無し。今帝即位し、和親の約束を明らかにし、厚く遇し、関市を通じ、饒かに之に給す。匈奴単于より以下皆漢に親しみ、長城の下に往来す。漢馬邑の下の人聶翁壹をして奸蘭に物を出だして匈奴と交はらしめ、詳りて馬邑の城を売ると為して以て単于を誘ふ。

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