新序 / 節士第七
申包胥以秦師至楚,秦大夫子滿,子虎帥車五百乘,子滿曰:「吾未知吳道。」使楚人先與吳人戰而會之。大敗吳師,吳師既退,昭王復國,而賞始於包胥。包胥曰:「輔君安國,非為身也;救急除害,非為名也,功成而受賞,是賣勇也。君既定,又何求焉?」遂逃賞,終身不見。君子曰:「申子之不受命赴秦,忠矣,七日七夜不絶聲,厚矣,不受賞,不伐矣。然賞所以勸善也,辭賞,亦非常法。」也
新字:申包胥以秦師至楚,秦大夫子満,子虎帥車五百乗,子満曰:「吾未知呉道。」使楚人先与呉人戦而会之。大敗呉師,呉師既退,昭王復国,而賞始於包胥。包胥曰:「輔君安国,非為身也;救急除害,非為名也,功成而受賞,是売勇也。君既定,又何求焉?」遂逃賞,終身不見。君子曰:「申子之不受命赴秦,忠矣,七日七夜不絶声,厚矣,不受賞,不伐矣。然賞所以勧善也,辞賞,亦非常法。」也
書き下し
申包胥秦師を以て楚に至る。秦の大夫子滿・子虎車五百乘を帥う。子滿曰く、吾未だ吳の道を知らず、と。楚人をして先ず吳人と戰わしめて之に會す。大いに吳師を敗る。吳師既に退き、昭王國に復す。而して賞は包胥より始む。包胥曰く、君を輔け國を安んずるは、身の爲に非ざるなり。急を救い害を除くは、名の爲に非ざるなり。功成りて賞を受くるは、是れ勇を賣るなり。君既に定まる。又た何をか求めんや、と。遂に賞を逃れ、身を終うるまで見えず。君子曰く、申子の命を受けずして秦に赴くは、忠なり。七日七夜聲を絶たざるは、厚なり。賞を受けざるは、伐らざるなり。然れども賞は善を勸むる所以なり。賞を辭するも、亦た常法に非ず、と。
現代語訳
申包胥は秦の軍とともに楚に至った。秦の大夫の子満と子虎が戦車五百乗を率いた。子満は言った。「私はまだ呉のやり方を知らない」。そこで楚の人を先に呉の人と戦わせて、そこに合流した。大いに呉の軍を破った。呉の軍が退くと、昭王は国に復した。そして賞は包胥から始めることになった。包胥は言った。「君を助け国を安んじたのは、我が身のためではない。急を救い害を除いたのは、名のためではない。功が成って賞を受けるのは、勇を売ったことになる。君はもう定まられた。ほかに何を求めようか」。そのまま賞から逃れ、生涯姿を見せなかった。君子は言った。「申子が命令を受けないまま秦へ行ったのは、忠である。七日七夜声を絶やさなかったのは、厚い。賞を受けなかったのは、誇らないことである。しかし賞は善を勧めるためのものである。賞を辞退することも、また常の法ではない」。
解説
この章句が説くこと
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