孔子家語 / 辯物
吳王夫差將與哀公見晉侯。子服景伯對使者曰:「王合諸侯,則伯率侯牧以見於王。伯合諸侯,則侯率子男以見於伯。今諸侯會,而君與寡君見晉君,則晉成為伯也。且執事以伯召諸侯,而以侯終之,何利之有焉?」吳人乃止,既而悔之,遂囚景伯。伯謂大宰嚭曰:「魯將以十月上辛,有事於上帝,先王季辛而畢。何也,世有職焉,自襄已來之改之。若其不會,則祝宗將曰吳實然。」嚭言於夫差,歸之。子貢聞之,見於孔子曰:「子服氏之子拙於說矣。以實獲囚,以詐得免。」孔子曰:「吳子為夷,德可欺而不可以實;是聽者之蔽,非說者之拙也。」
新字:呉王夫差将与哀公見晋侯。子服景伯対使者曰:「王合諸侯,則伯率侯牧以見於王。伯合諸侯,則侯率子男以見於伯。今諸侯会,而君与寡君見晋君,則晋成為伯也。且執事以伯召諸侯,而以侯終之,何利之有焉?」呉人乃止,既而悔之,遂囚景伯。伯謂大宰嚭曰:「魯将以十月上辛,有事於上帝,先王季辛而畢。何也,世有職焉,自襄已来之改之。若其不会,則祝宗将曰呉実然。」嚭言於夫差,帰之。子貢聞之,見於孔子曰:「子服氏之子拙於説矣。以実獲囚,以詐得免。」孔子曰:「呉子為夷,徳可欺而不可以実;是聴者之蔽,非説者之拙也。」
書き下し
呉王夫差、将に哀公と与に晋侯に見えんとす。子服景伯、使者に対えて曰わく、「王諸侯を合すれば、則ち伯侯牧を率いて以て王に見う。伯諸侯を合すれば、則ち侯子男を率いて以て伯に見う。今諸侯会するに、君と寡君と晋君に見えば、則ち晋成りて伯と為らん。且つ執事伯を以て諸侯を召し、而して侯を以て之れを終うれば、何の利か之れ有らん。」呉人乃ち止む。既にして之れを悔い、遂に景伯を囚う。伯、大宰嚭に謂いて曰わく、「魯将に十月上辛を以て、上帝に事有らんとす、先王季辛にして畢わる。何ぞや、世に職有り、襄より已来之れを改む。若し其れ会せずんば、則ち祝宗将に曰わん、呉実に然りと。」嚭夫差に言い、之れを帰す。子貢之れを聞き、孔子に見えて曰わく、「子服氏の子、説くに拙し。実を以て囚を獲、詐を以て免るるを得たり。」孔子曰わく、「呉子は夷為り、徳は欺く可くして実を以てす可からず。是れ聴く者の蔽いにして、説く者の拙きに非ざるなり。」
現代語訳
呉王の夫差は、魯の哀公とともに晋侯に謁見しようとしていた。子服景伯は呉の使者に言った。「天子が諸侯を集めるときは、覇者が侯・牧を率いて天子に謁見します。覇者が諸侯を集めるときは、侯が子・男の爵位の者を率いて覇者に謁見します。今、諸侯が会するにあたり、わが君(哀公)とあなたの君(夫差)が晋君に謁見するとなれば、晋が覇者としての地位を確立することになってしまいます。しかも係の者は覇者としての名目で諸侯を召集しておきながら、結果として侯としての礼で終わらせるのでは、いったい何の利益がありましょうか。」呉の人々はそれで謁見を取りやめた。しかしのちにそれを悔やみ、そこで景伯を捕らえて幽閉した。景伯は太宰の嚭に言った。「魯はまもなく十月上旬の辛の日に、上帝を祀る儀式を行おうとしています。先王の代には季(下旬)の辛の日で終える定めでしたが、それはなぜかというと、代々の役職の慣例があり、襄公の代からこれを改めたのです。もし私がこの機会に参加できなければ、祝官や宗官は『呉が実際にそうさせたのだ』と言うことになるでしょう。」嚭はこれを夫差に伝え、景伯は釈放されて帰された。子貢はこの話を聞き、孔子に会って言った。「子服氏(景伯)は弁舌が拙いですね。本当のことを言って囚われの身になり、偽りを言って釈放されたのですから。」孔子は言った。「呉の君主は夷狄の出であり、道理の徳では欺くことができても、真実の道理では動かすことができない。これは話を聞く側の見識の曇りであって、話す側の弁舌が拙いのではない。」
解説

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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
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『晏子春秋』雑下・晏子使吳吳王命儐者稱天子晏子詳惑晏子呉に使いす。呉王行人に謂いて曰く、「吾聞く、晏嬰は蓋し北方の辞に弁にして、礼に習う者なりと。儐者に命ぜよ、『客見ゆれば則ち天子請見すと称せよ』と」と。明日、晏子事有り。行人曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。行人又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たること三たび、曰く、「臣命を弊邑の君に受け、将に呉王の所に使いせんとす。不敏にして迷惑するを以て、天子の朝に入れり。敢えて問う、呉王は悪くにか存する」と。然る後呉王曰く、「夫差請見す」と。之に見ゆるに諸侯の礼を以てす。
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史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
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『講孟余話』梁惠王下 第三章此の章大議論なり、略其の端緒を論ぜん。隣国に交はる、原と是れ諸侯近隣諸国と交はるの道を論ず。然れども昆夷・獯鬻の事を引くを以て、或は錯りて夷狄を待つの道とし、遂に夷狄に事ふるを以て仁智の事とせんことを恐る、是れ細論せずんばあるべからず。凡そ隣国に交はるには親睦を以て主とす。故に力徳義三つの者我に優れる者に在りては、固より奉事すべし。或は力を恃んで強梁なる者ありとも、成る丈は寛仮して敢へて鋒を争はざるべし。若し又小国の如きは愛護して其の他国の侵陵を免れしむべし。凡そ夷狄の陵侮を受け、生民の塗炭となるは、国内相争ふに因る。世道に志ある者、最も意を留むべき事なり。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。