新序 / 雜事第五
齊桓公見小臣稷,一日三至不得見也,從者曰:「萬乘之主,布衣之士,一日三至而不得見,亦可以止矣。」桓公曰:「不然,士之傲爵禄者,固輕其主;其主傲覇王者,亦輕其士,縱夫子傲爵禄,吾庸敢傲霸王乎?」五往而後得見,天下聞之,皆曰:「桓公猶下布衣之士,而况國君乎?」於是相率而朝,靡有不至。桓公所以九合諸侯,一匡天下者,遇士於是也。詩云:「有覺徳行,四國順之。」桓公其以之矣。
新字:斉桓公見小臣稷,一日三至不得見也,従者曰:「万乗之主,布衣之士,一日三至而不得見,亦可以止矣。」桓公曰:「不然,士之傲爵禄者,固軽其主;其主傲覇王者,亦軽其士,縦夫子傲爵禄,吾庸敢傲覇王乎?」五往而後得見,天下聞之,皆曰:「桓公猶下布衣之士,而況国君乎?」於是相率而朝,靡有不至。桓公所以九合諸侯,一匡天下者,遇士於是也。詩云:「有覚徳行,四国順之。」桓公其以之矣。
書き下し
齊の桓公小臣稷に見えんとす。一日に三たび至るも見ゆるを得ざるなり。從者曰く、萬乘の主、布衣の士、一日に三たび至るも見ゆるを得ず。亦た以て止む可し、と。桓公曰く、然らず。士の爵祿に傲る者は、固より其の主を輕んず。其の主の霸王に傲る者は、亦た其の士を輕んず。縱い夫子爵祿に傲るとも、吾庸ぞ敢えて霸王に傲らんや、と。五たび往きて後に見ゆるを得たり。天下之を聞き、皆な曰く、桓公すら猶お布衣の士に下る。而るに况んや國君をや、と。是に於いて相い率いて朝す。至らざる有る靡し。桓公の九たび諸侯を合わせ、一たび天下を匡す所以の者は、士に遇うこと是に於いてすればなり。詩に云う、覺たる德行有らば、四國之に順う、と。桓公其れ以て之れせるか。
現代語訳
斉の桓公が小臣稷に会おうとした。一日に三度出向いても会えなかった。従者は言った。「万乗の君主が、庶民の士に、一日三度出向いても会えない。もうおやめになってよいでしょう」。桓公は言った。「そうではない。士で爵禄に対して傲る者は、もとよりその主を軽んじる。その主で覇王の道に対して傲る者は、やはりその士を軽んじる。たとえ先生が爵禄に傲るとしても、私がどうして覇王の道に傲れようか」。五度出向いて、その後に会うことができた。天下はこれを聞き、みな言った。「桓公でさえ庶民の士にへりくだる。まして国君はなおさらだ」。そこで人々は連れ立って朝廷に集まり、来ない者がなかった。桓公が九度諸侯を集め、ひとたび天下を正したのは、士に対する接し方がこうだったからである。『詩経』に「立派な徳行があれば、四方の国はこれに従う」とある。桓公はそれによったのだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之四・礼本立てば末は是より出づる理なり。末のみ修りて、本なきは、誠なくして、礼の道たたず。喪の礼は、ことさら真実ならでは行はれざるものなれば、既に礼の本を説きて、又其内より、喪の礼の本をかかげ出して説き給ふ。
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『五常訓』巻之四・礼一朱子曰、礼は即理の節文なり。いふ意は、万の行、道理にかなひて、過不及なく、程よきを云ふ。飲食の一事をいはば、うゑかわく時に飲み食ふは理なり。されども、飲み食ふべき理なりとて、みだりに多く飲み食へば、放逸にして、みだりがはしく、又必病を生ず。飲み食ふべき理にあたりて、過不及なく、よき程なるが、理の節文なり。万の事、是を以て知るべし。
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『五常訓』巻之四・礼一礼記に、子曰、敬ひて礼にあたらざる、これを野と云ふ。敬ふは誠によけれど、礼にかなはざれば、これ野きなり。敬によき程の法あり。過不及ありて、其法にかなはざるは、是礼にあたらざるなり。況やおごりて理にかなはざるは、ことに礼にそむけり。野きより、其害甚し。
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『弁名』禮礼は道の名なり。先王の制作する所の四教・六芸、是れ其の一に居る。所謂経礼三百、威儀三千、是れ其の物なり。六芸は、書・数は庶人の官に在る者、府・史・胥・徒の専ら務むる所と為す。御も亦た士の職とする所なり。射は諸侯に通ずと雖も、其の所謂射は、礼楽を以て之を行ふ、民の射の皮を主とする者の比に非ず。唯だ礼楽のみ乃ち芸の大なる者にして、君子の務むる所なり。而して楽は伶官に掌られ、君子以て徳を養ふのみ。礼に至りては則ち君子此を以て顕業と為す。是を以て孔子少くして礼を知るを以て称せられ、周に之きて礼を老聃に問ひ、杞に之き宋に之き、唯だ礼を之れ求む。子夏の記す所、曾子の問ふ所、七十子皆礼に断断たり。檀弓の諸篇に見ゆ。三代の君子の礼を務むる、以て見るべきのみ。
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『五常訓』巻之四・礼一威儀をつつしみ、衣冠を正しくし、視ること、聴くこと、言ふこと、動くことの四事につきて、各過不及なく、よき程の法あり。又親につかへ、君につかふるに、各さだまれる法あり。兄弟、夫婦に対し、賓客にまじはり、臣下に対し、民をつかひ、先祖鬼神をまつるも法あり。是礼は、皆天理のよき程なる節文にして、人事の定まれる作法なり。仁義皆理なりといへども、とりわき礼を理といへるに子細あり。理とは行ふべきすぢめなり。万事を行ふに、皆定まりたる作法あり。是人の行ふべきすぢめなり。是即礼なり。ここを以て聖人の説き給へる礼の字は、理の字にあたれり。然れども理といはずして礼といへるに、子細あり。理といへば形と事にあらはれたる迹なくして、虚なり。
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『弁名』禮是の礼楽の教は、黙して之を識るに在りと雖も、然れども人の知、至る有り、至らざる有り。故に孔子時有りてか、一隅を挙げて以て其の義を語る。義とは先王の礼を制する所以の義、戴記に載する所皆是れのみ。祇だ人の知、至る有り、至らざる有り。故に七十子の先王を信ずる、孔子の先王を信ずるに及ばず。其の人の七十子を信ずるも、亦た七十子の孔子を信ずるに及ばず。故に其の人に喩さんと欲するの急なる、其の義を論説して已まず。日に以て蔓衍し、以て戦国の時に至りて、義遂に礼を離れて孤行し、復た礼に就きて其の義を言はず。孟子の書を観て見るべきのみ。此れより其の後、古を去ること益〻遠く、義理の説益〻盛んに、囂然として以て天下を乱し、先王・孔子の教、蕩乎として尽く。悲しいかな。

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