新序 / 雜事第三
燕易王時,國大亂,齊閔王興師伐燕,屠燕國,載其寶器而歸。易王死,及燕國復,太子立為燕王,是為燕昭王。昭王賢,即位卑身厚幣,以招賢者。謂郭隗曰:「齊因孤國之亂,而襲破燕、孤極知燕小力少,不足以報,然得賢士與共國,以雪先生之醜,孤之願也。先王視可者得身事之。」隗曰:「臣聞古之人君,有以千金求千里馬者,三年不能得,涓人言於君曰請求之君遣之三月得千里馬馬已死,買其骨五百金,反以報君。君大怒曰:『所求者生馬,安用死馬捐五百金。』涓人對曰:『死馬且市之五百金,况生馬乎?天下必以王為能市馬,馬今至矣。』於是不朞年,千里馬至者二。今王誠欲必致士,請從隗始。隗且見事,况賢於隗者乎?豈逺千里哉?」於是昭王為隗築宫而師之。樂毅自魏徃,鄒衍自齊往,劇辛自趙往,士争走燕。燕王吊死問孤,與百姓同甘苦二十八年,燕國殷富,士卒樂軼輕戰。於是遂以樂毅為上將軍,與秦楚三晉合謀以伐齊。樂毅之筴,得賢之功也。
新字:燕易王時,国大乱,斉閔王興師伐燕,屠燕国,載其宝器而帰。易王死,及燕国復,太子立為燕王,是為燕昭王。昭王賢,即位卑身厚幣,以招賢者。謂郭隗曰:「斉因孤国之乱,而襲破燕、孤極知燕小力少,不足以報,然得賢士与共国,以雪先生之醜,孤之願也。先王視可者得身事之。」隗曰:「臣聞古之人君,有以千金求千里馬者,三年不能得,涓人言於君曰請求之君遣之三月得千里馬馬已死,買其骨五百金,反以報君。君大怒曰:『所求者生馬,安用死馬捐五百金。』涓人対曰:『死馬且市之五百金,況生馬乎?天下必以王為能市馬,馬今至矣。』於是不朞年,千里馬至者二。今王誠欲必致士,請従隗始。隗且見事,況賢於隗者乎?豈遠千里哉?」於是昭王為隗築宮而師之。楽毅自魏往,鄒衍自斉往,劇辛自趙往,士争走燕。燕王吊死問孤,与百姓同甘苦二十八年,燕国殷富,士卒楽軼軽戦。於是遂以楽毅為上将軍,与秦楚三晋合謀以伐斉。楽毅之筴,得賢之功也。
書き下し
燕の易王の時、國大いに亂る。齊の閔王師を興して燕を伐ち、燕國を屠り、其の寶器を載せて歸る。易王死し、燕國復するに及び、太子立ちて燕王と爲る。是れ燕の昭王爲り。昭王賢なり。即位して身を卑くし幣を厚くし、以て賢者を招く。郭隗に謂いて曰く、齊孤が國の亂に因りて、襲いて燕を破る。孤極めて燕の小さく力少なく、以て報ゆるに足らざるを知る。然れども賢士を得て與に國を共にし、以て先王の醜を雪ぐは、孤の願いなり。可なる者を視ば、身を得て之に事えん、と。隗曰く、臣聞く、古の人君に、千金を以て千里の馬を求むる者有り。三年にして得る能わず。涓人君に言いて曰く、請う之を求めん、と。君之を遣る。三月にして千里の馬を得たり。馬已に死せり。其の骨を五百金に買い、反りて以て君に報ず。君大いに怒りて曰く、求むる所の者は生馬なり。安んぞ死馬を用いて五百金を捐てんや、と。涓人對えて曰く、死馬すら且つ之を五百金に市う。况んや生馬をや。天下必ず王を以て能く馬を市うと爲さん。馬今に至らん、と。是に於いて期年ならずして、千里の馬の至る者二なり。今王誠に必ず士を致さんと欲さば、請う隗より始めよ。隗すら且つ事えらる。况んや隗より賢なる者をや。豈に千里を遠しとせんや、と。是に於いて昭王隗の爲に宮を築きて之を師とす。樂毅は魏より往き、鄒衍は齊より往き、劇辛は趙より往き、士争いて燕に走る。燕王死を弔い孤を問い、百姓と甘苦を同じくすること二十八年。燕國殷富し、士卒樂軼して戰いを輕んず。是に於いて遂に樂毅を以て上將軍と爲し、秦・楚・三晉と謀を合わせて以て齊を伐つ。樂毅の策は、賢を得るの功なり。
現代語訳
燕の易王のとき、国が大いに乱れた。斉の閔王が軍を興して燕を伐ち、燕の国を殺戮し、その宝器を載せて帰った。易王が死に、燕の国が立ち直ると、太子が立って燕王となった。これが燕の昭王である。昭王は賢明であった。即位すると身を低くし贈り物を厚くして、賢者を招いた。郭隗に言った。「斉はわが国の乱に乗じて、襲って燕を破った。私は燕が小さく力が乏しく、報復するに足りないことをよく知っている。しかし賢士を得てともに国を営み、先王の恥をすすぐのが、私の願いだ。適任の者が見つかれば、身をもってこれに仕えよう」。郭隗は言った。「臣は聞いております。いにしえの君主に、千金で千里の馬を求めた者がありました。三年たっても得られません。近侍の者が君に言いました。『どうか私に求めさせてください』。君はこれを遣わしました。三か月して千里の馬を見つけました。馬はすでに死んでいました。その骨を五百金で買い、帰って君に報告しました。君は大いに怒って言いました。『求めているのは生きた馬だ。どうして死んだ馬に五百金を捨てるのか』。近侍は答えました。『死んだ馬でさえ五百金で買うのです。まして生きた馬ならなおさら。天下は必ず王を、馬をよく買う人だと思うでしょう。馬はすぐに来ます』。そこで一年とたたないうちに、千里の馬が二頭やって来ました。いま王がまことに士を集めたいとお思いなら、どうかこの隗から始めてください。隗でさえ師と仰がれるのです。まして隗より賢い者はなおさら。どうして千里を遠いと思いましょうか」。そこで昭王は郭隗のために館を築いてこれを師とした。楽毅は魏から、鄒衍は斉から、劇辛は趙から来て、士は争って燕へ走った。燕王は死者を弔い孤児を見舞い、民と苦楽を共にすること二十八年。燕国は豊かになり、兵は楽しんで戦を軽んじた。そこでついに楽毅を上将軍とし、秦・楚・三晋と謀を合わせて斉を伐った。楽毅の策は、賢者を得た功である。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四一上の剛强成る男の仕形は、平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き、前にも我しはざを分別にて工夫し、其塲へ出ては機のきいたる才覚を以て手抦をせんと思ふより、人にも一円搆はぬ者なり、二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り、上の人におとりて見へぬ者なり、三下の男は只の儀もなく上中の人がゆかば、我等もまいらんとて、ふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり、四其外の男は皆人なみと申すなり、上の男は侍百人の中にふたり、中の男は百人の内に六人、下の男は百人の中に十二人、残て八十人は並なり、
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