新序 / 雜事第二
秦不用叔孫通,項王不用陳平、韓信而皆滅,漢用之而大興,此未逺也。夫失賢者,其禍如彼用賢者其福如此。人君莫不求賢以自輔,然而國以亂亡者,所謂賢者不賢也。或使賢者為之,與不肖者議之,使智者圖之,與愚者謀之。不肖嫉賢,愚者嫉智,是賢者之所以隔蔽也,所以千載不合者也。或不肖用賢而不能久也,或久而不能終也;或不肖子廢賢父之忠臣,其禍敗難一二録也,然其要在於巳不明而聽衆口,譖愬不行,斯為明也。
新字:秦不用叔孫通,項王不用陳平、韓信而皆滅,漢用之而大興,此未遠也。夫失賢者,其禍如彼用賢者其福如此。人君莫不求賢以自輔,然而国以乱亡者,所謂賢者不賢也。或使賢者為之,与不肖者議之,使智者図之,与愚者謀之。不肖嫉賢,愚者嫉智,是賢者之所以隔蔽也,所以千載不合者也。或不肖用賢而不能久也,或久而不能終也;或不肖子廃賢父之忠臣,其禍敗難一二録也,然其要在於巳不明而聴衆口,譖愬不行,斯為明也。
書き下し
秦は叔孫通を用いず、項王は陳平・韓信を用いずして皆な滅ぶ。漢之を用いて大いに興る。此れ未だ遠からざるなり。夫れ賢を失う者は、其の禍い彼の如し。賢を用うる者は、其の福此の如し。人君賢を求めて以て自ら輔けざるは莫し。然り而して國以て亂亡する者は、所謂賢者の賢ならざればなり。或いは賢者をして之を爲さしめて、不肖者と之を議す。智者をして之を圖らしめて、愚者と之を謀る。不肖は賢を嫉み、愚者は智を嫉む。是れ賢者の隔蔽せらるる所以にして、千載合わざる所以の者なり。或いは不肖賢を用うるも久しくする能わず、或いは久しくして終うる能わず。或いは不肖の子賢父の忠臣を廢す。其の禍敗一二に錄し難きなり。然れども其の要は、己明らかならずして衆口を聽くに在り。譖愬行われざれば、斯れ明と爲すなり。
現代語訳
秦は叔孫通を用いず、項羽は陳平・韓信を用いずに、いずれも滅んだ。漢はこれを用いて大いに興った。これはまだ遠い昔のことではない。そもそも賢者を失う者は、その禍いはあのとおりである。賢者を用いる者は、その福はこのとおりである。君主で、賢者を求めて自分を輔けさせようとしない者はいない。それなのに国が乱れ滅びるのは、いわゆる賢者が賢者でないからである。あるいは賢者にそれをやらせておいて、愚か者とそれを議論する。知者にそれを企画させておいて、愚者とそれを謀る。愚か者は賢者をねたみ、愚者は知者をねたむ。これが賢者が隔てられ覆い隠される理由であり、千年たっても巡り合わないゆえんである。あるいは愚か者が賢者を用いても長続きしない。あるいは長続きしても最後まで行かない。あるいは愚かな子が、賢い父の忠臣を退ける。その禍いと失敗は、一つ二つでは書き切れない。しかしその要は、自分が明らかでないままに多くの口を聞くことにある。中傷が通らなければ、それが明というものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第十三其時則政大きに立腹し給ひ、本間·井又生害におよぶ所に漸にげのび、在地の体なり、家老衆わびこと申さるれ共、只はならず、彼の両人奉行衆内の者共に理はりを致したると申せば、両出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也、其内に北条家と取り合ひの境目にて、度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし、
-
尚書・秦誓啻に其の口より出づるが如きのみならず、是れ能く之を容る。以て我が子孫黎民を保つ、亦職に利有らんかな。人の技有るを、冒疾して以て之を悪み、人の彦聖なるを、之に違ひて達せざらしむ、是れ容るる能はず。以て我が子孫黎民を保つ能はず、亦殆ふしと曰はんかな。
-
『甲陽軍鑑』品第十二残て五人斗り男を立てる人あれ共、其者をば各々悪しういひ頭も上げさせずしてをしかすむ、かすめらるまじきとて一と言いへば、前に口たけ驕りたるに違い挨拶はめてくちにて、かげへまはり狂気人に申し立て候へば、能き人物もいひ得ず、そこにては能き五人の内も三人は、分別を仕かへ、命を抛ち武辺をかせぐも所領を取り立身せんと云ふことなれば、時に至りて仕合せよき人の機にあはんなり、いかに元来町人にてち家の老案出頭衆彼の者共を能ゝ思ひ給へは、我心さへ違はすは付き合ひ取りなしをいはれ、徳にせんとて件の町人方へ能き人も出入する、
-
『政談』諸役人に器量を選ふ事偖又身を蹈込みて勤むる人と見ば、上の御威光を加へ玉はねは傍輩のそねみ上役の気違ひ、是亦人情にて必す有ることなれば、其の身を踏込みたるも中途にて挫くるものなり、大久保石見守と云ふものを猿楽より御取り立て、東照宮召し使はれ大名になされ、後には遂に悪事によりて滅却したるを、東照宮の御誤りのやうに云ふ人あれども、某しなどは神慮のほど各別なることと感し奉る、其の者一器量あるものなる故、過分に御取り立てありて其の器量を押へ扣へなく働かせ玉ふこと是れ能く人を使ふ道を得玉へるなり、御出頭故に様々の悪事をも御搆ひなしと知らぬ人は申せとも左にあらず、小過を許さねば人の器量は延びぬもの故御搆ひなきことなり、其者後に大悪事仕出したるは各別のことなり、只人を使ひやう遊はされかた後の世の様なる小々なることにあらす、此の段万世の手本なるへきなり、
-
『甲陽軍鑑』品第十三又北条家へ武略に行く両人、其内井又左近太夫酉の三月毒害にて死する、則政公仰せには我下の大身ども、北条家へ心もよせぬ者どもを偽を申かけたる罰にて、頓死仕たりと仰出され候間、諸人悉く井又左近をにくまぬ者はさのみなし、扨上杉家の能き家老一両人寄合管領家是ほどには木に成たりさて、忍て井又左近太夫が跡を吊てなけども更にかひそなき、然ば北条家氏康廿三歳にては扇谷の城河越〓をのつとる、そこにて行あたり、右にいやしみたる事は両年の間に忘すれ、
-
『晏子春秋』外篇上・有獻書譖晏子退耕而國不治復召晏子晏子景公に相たり。其の人を論ずるや、賢を見ては之を進め、君の欲する所に同じからず。不善を見ては則ち廃し、君の愛する所を辟けず。己を行いて私無く、直言して諱む無し。書を納むる者有りて、曰く、「廃置君前に周からざる、之を専と謂い、言を出して君前に諱まざる、之を易と謂う。専易の行い存すれば、則ち君臣の道廃す。吾晏子の忠臣為るを知らず」と。公以て然りと為す。晏子朝に入るに、公の色説ばず。故に晏子帰り、載を備え、人をして辞せしめて曰く、「嬰は故より老悖にして能無し。敢えて壮者の事に服する毋し」と。辞して臣たらず、退きて窮処し、東のかた海浜に耕し、堂下に藜藿生じ、門外に荊棘生ず。七年、燕・魯分争し、百姓惛乱して、家に積む無し。公自ら国を治め、権は諸侯に軽く、身は高・国に弱し。公恐れ、復た晏子を召す。晏子至るに、公は一たび七年の禄を帰し、而して家に蔵する無し。晏子立つに、諸侯其の威を忌み、高・国其の政に服し、燕・魯職を貢し、小国時に朝す。晏子没して後に衰う。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る