新序 / 雜事第一
昭奚恤發精兵三百人,陳於西門之内。為東面之壇一,為南面之壇四,為西面之壇一。秦使者至,昭奚恤曰:「君客也,請就上位東面。」令尹子西南面,太宗子敖次之,葉公子髙次之,司馬子反次之,昭奚恤自居西面之壇,稱曰:「客欲觀楚國之寶器,楚國之所寶者賢臣也。理百姓,實倉廩,使民各得其所,令尹子西在此。奉珪璧,使諸侯,解忿悁之難,交兩國之歡,使無兵革之憂,太宗子敖在此。守封疆,謹境界,不侵鄰國,鄰國亦不見侵,葉公子髙在此。理師旅,整兵戎,以當疆敵,提枹鼔以動百萬之衆所使皆趨湯火,蹈白刃,出萬死,不顧一生之難,司馬子反在此。懷霸王之餘議,攝治亂之遺風,昭奚恤在此,唯大國之所觀。」秦使者戄然無以對,昭奚恤遂揖而去。秦使者反,言於秦君曰:「楚多賢臣,未可謀也。」遂不伐。楚詩云:「濟濟多士,文王以寧。」斯之謂也。
新字:昭奚恤発精兵三百人,陳於西門之内。為東面之壇一,為南面之壇四,為西面之壇一。秦使者至,昭奚恤曰:「君客也,請就上位東面。」令尹子西南面,太宗子敖次之,葉公子高次之,司馬子反次之,昭奚恤自居西面之壇,称曰:「客欲観楚国之宝器,楚国之所宝者賢臣也。理百姓,実倉廩,使民各得其所,令尹子西在此。奉珪璧,使諸侯,解忿悁之難,交両国之歓,使無兵革之憂,太宗子敖在此。守封疆,謹境界,不侵鄰国,鄰国亦不見侵,葉公子高在此。理師旅,整兵戎,以当疆敵,提枹鼓以動百万之衆所使皆趨湯火,蹈白刃,出万死,不顧一生之難,司馬子反在此。懐覇王之余議,摂治乱之遺風,昭奚恤在此,唯大国之所観。」秦使者戄然無以対,昭奚恤遂揖而去。秦使者反,言於秦君曰:「楚多賢臣,未可謀也。」遂不伐。楚詩云:「済済多士,文王以寧。」斯之謂也。
書き下し
昭奚恤精兵三百人を發し、西門の内に陳ぬ。東面の壇一を爲り、南面の壇四を爲り、西面の壇一を爲る。秦の使者至る。昭奚恤曰く、君は客なり。請う上位に就きて東面せよ、と。令尹子西南面し、太宗子敖之に次ぎ、葉公子高之に次ぎ、司馬子反之に次ぐ。昭奚恤自ら西面の壇に居り、稱して曰く、客楚國の寶器を觀んと欲す。楚國の寶とする所の者は賢臣なり。百姓を理め、倉廩を實たし、民をして各ミ其の所を得しむるは、令尹子西此に在り。珪璧を奉じ、諸侯に使いし、忿悁の難を解き、兩國の歡を交え、兵革の憂い無からしむるは、太宗子敖此に在り。封疆を守り、境界を謹み、鄰國を侵さず、鄰國も亦た侵されざるは、葉公子高此に在り。師旅を理め、兵戎を整え、以て彊敵に當たり、枹鼓を提げて以て百萬の衆を動かし、使う所皆な湯火に趨り、白刃を蹈み、萬死に出でて一生を顧みざるの難は、司馬子反此に在り。霸王の餘議を懷き、治亂の遺風を攝るは、昭奚恤此に在り。唯だ大國の觀る所なり、と。秦の使者戄然として以て對うる無し。昭奚恤遂に揖して去る。秦の使者反り、秦君に言いて曰く、楚に賢臣多し。未だ謀る可からざるなり、と。遂に伐たず。詩に云う、濟濟たる多士、文王以て寧し、と。斯れ之の謂いなり。
現代語訳
昭奚恤は精兵三百人を出し、西門の内に並べた。東を向く壇を一つ、南を向く壇を四つ、西を向く壇を一つ作った。秦の使者が到着した。昭奚恤は言った。「あなたは客人です。どうか上座に就いて東を向いてください」。令尹の子西が南を向き、太宗の子敖がこれに次ぎ、葉公子高がこれに次ぎ、司馬の子反がこれに次いだ。昭奚恤は自ら西を向く壇にいて、こう述べた。「客人は楚国の宝器をご覧になりたいとのこと。楚国が宝とするものは賢臣です。民を治め、倉を満たし、民それぞれにその居場所を得させるのは、令尹の子西がここにおります。玉を奉じて諸侯に使いし、いさかいの難を解き、両国の交わりを結び、戦の憂いをなくさせるのは、太宗の子敖がここにおります。国境を守り、境界を慎み、隣国を侵さず、隣国からも侵されないのは、葉公子高がここにおります。軍を治め、兵器を整え、強敵に当たり、太鼓を手に百万の兵を動かし、命じられれば熱湯や火に飛び込み、白刃を踏み、万死に出て一命を顧みない難事にあたるのは、司馬の子反がここにおります。覇王の遺した議論を心に抱き、治乱の遺風を修めるのは、この昭奚恤がここにおります。どうぞ大国のお目にかけましょう」。秦の使者は驚き恐れて答えることができなかった。昭奚恤はそのまま礼をして去った。秦の使者は帰って秦君に言った。「楚には賢臣が多い。まだ謀るべきではありません」。そこで伐たなかった。『詩経』に「多くの立派な士がいて、文王はそれで安らかであった」とある。これのことである。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』尚賢中賢者の國家を治むるや、蚤に朝して晏く退き、獄を聴き政を治む。是を以て國家治まりて刑法正し。賢者の官に長たるや、夜に寢ね夙に興き、關市・山林・澤梁の利を收斂して、以て官府を實たす。是を以て官府實ちて財散ぜず。賢者の邑を治むるや、蚤に出でて莫に入り、耕稼樹藝して菽粟を聚む。是を以て菽粟多くして民は食に足る。故に國家治まれば則ち刑法正しく、官府實つれば則ち萬民富む。上には以て潔く酒醴粢盛を為りて、以て天鬼を祭祀する有り。外には以て皮幣を為りて、四鄰の諸侯と交接する有り。内には以て饑えたるを食らわせ勞れたるを息わせ、其の萬民を將養する有り。外には以て天下の賢人を懷くる有り。是の故に上なる者は天鬼之を富まし、外なる者は諸侯之に與し、内なる者は萬民之に親しみ、賢人之に歸す。此を以て事を謀れば則ち得、事を舉ぐれば則ち成り、入りて守れば則ち固く、出でて誅すれば則ち彊し。故に唯だ昔の三代の聖王、堯舜禹湯文武の天下に王たり諸侯を正しくせし所以の者は、此れ亦た其の法のみ。
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史記 趙世家是に於て趙乃ち輟め、秦に謝して斉を撃たず。王燕王と遇ふ。廉頗将として、斉の昔陽を攻め、之を取る。十七年、楽毅趙の師に将として魏の伯陽を攻む。而して秦、趙の己と斉を撃たざるを怨み、趙を伐ち、我が両城を抜く。十八年、秦我が石城を抜く。王再び衛の東陽に之き、河水を決し、魏氏を伐つ。大いに潦し、漳水出づ。魏冉来りて趙に相たり。十九年、秦我が二城を取る。趙魏に伯陽を与ふ。趙奢将として、斉の麦丘を攻め、之を取る。二十年、廉頗将として斉を攻む。王秦の昭王と西河の外に遇ふ。二十一年、趙漳水を武平の西に徙す。二十二年、大いに疫す。公子丹を置きて太子と為す。二十三年、楼昌将として、魏の幾を攻むるも、取ること能はず。十二月、廉頗将として、幾を攻め、之を取る。二十四年、廉頗将として、魏の房子を攻め、之を抜き、因りて城きて還る。又安陽を攻め、之を取る。二十五年、燕周将として、昌城・高唐を攻め、之を取る。魏と共に秦を撃つ。秦の将白起我を華陽に破り、一将軍を得たり。二十六年、東胡の代を欧ひし地を取る。二十七年、漳水を武平の南に徙す。趙豹を封じて平陽君と為す。河水出で、大いに潦す。二十八年、藺相如斉を伐ち、平邑に至る。城北の九門の大城を罷む。燕の将成安君公孫操其の王を弑す。二十九年、秦・韓相攻めて、閼与を囲む。趙、趙奢をして将として秦を撃たしめ、大いに秦軍を閼与の下に破り、号を賜ひて馬服君と為す。三十三年、恵文王卒し、太子丹立つ、是を孝成王と為す。孝成王元年、秦我を伐ち、三城を抜く。趙王新たに立ち、太后事を用ふ。秦急に之を攻む。趙氏救ひを斉に求む。斉曰く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん」と。太后肯ぜず。大臣彊く諫む。
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国語・楚語下王孫圉(おうそんぎょ)晋に聘す。定公之を饗す。趙簡子玉を鳴らして以て相(しょう)たり。王孫圉に問いて曰く、「楚の白珩(はくこう)猶お在りや」と。対えて曰く、「然り」と。簡子曰く、「其の宝為ること、幾何(いくばく)ぞや」と。 曰く、「未だ嘗て宝と為さず。楚の宝とする所の者は、観射父と曰う。能く訓辞を作りて、以て事を諸侯に行い、寡君を以て口実と為すこと無からしむ。又左史倚相有り。能く訓典を道いて、以て百物を敘し、以て朝夕善敗を寡君に献じ、寡君をして先王の業を忘るること無からしむ。又能く上下鬼神に説き、其の欲悪に順道し、神をして楚国に怨痛有ること無からしむ。又藪有りて雲連徒洲(うんれんとしゅう)と曰う。金木竹箭の生ずる所なり。亀・珠・角・歯・皮・革・羽・毛は、以て賦に備えて、以て不虞に戒むる所以の者なり。以て幣帛を共(きょう)して、以て諸侯に賓享する所以の者なり。若し諸侯の好む幣具わりて、之を導くに訓辞を以てし、不虞の備え有りて、皇神之を相(たす)けば、寡君其れ以て罪を諸侯に免るべくして、国民保たれん。此れ楚国の宝なり。若し夫れ白珩は、先王の玩なり、何ぞ之を宝とせん。 「圉聞く、国の宝は六のみ、と。明王聖人能く百物を制議して、以て国家を輔相すれば、則ち之を宝とす。玉以て嘉穀を庇廕(ひいん)し、水旱の災い無からしむるに足れば、則ち之を宝とす。亀以て臧否(ぞうひ)を憲(しめ)すに足れば、則ち之を宝とす。珠以て火災を禦ぐに足れば、則ち之を宝とす。金以て兵乱を禦ぐに足れば、則ち之を宝とす。山林藪沢以て財用に備うるに足れば、則ち之を宝とす。若し夫れ譁囂(かごう)の美は、楚蛮夷なりと雖も、宝とすること能わざるなり」と。
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