新序 / 雜事第一
秦欲伐楚,使使者往觀楚之寶器,楚王聞之,召令尹子西而問焉:「曰秦欲觀楚之寶器,吾和氏之璧,隨侯之珠,可以示諸?」令尹子西對曰:「不知也。」召昭奚恤而問焉,昭奚恤對曰:「此欲觀吾國得失而圖之,不在寶器,在賢臣,珠玉玩好之物,非寶重者。」王遂使昭奚恤應之。
新字:秦欲伐楚,使使者往観楚之宝器,楚王聞之,召令尹子西而問焉:「曰秦欲観楚之宝器,吾和氏之璧,随侯之珠,可以示諸?」令尹子西対曰:「不知也。」召昭奚恤而問焉,昭奚恤対曰:「此欲観吾国得失而図之,不在宝器,在賢臣,珠玉玩好之物,非宝重者。」王遂使昭奚恤応之。
書き下し
秦楚を伐たんと欲し、使者をして往きて楚の寶器を觀しむ。楚王之を聞き、令尹子西を召して問う。曰く、秦楚の寶器を觀んと欲す。吾が和氏の璧、隨侯の珠、以て諸を示す可きか、と。令尹子西對えて曰く、知らざるなり、と。昭奚恤を召して問う。昭奚恤對えて曰く、此れ吾が國の得失を觀て之を圖らんと欲するなり。寶器に在らず、賢臣に在り。珠玉玩好の物は、寶重なる者に非ず、と。王遂に昭奚恤をして之に應ぜしむ。
現代語訳
秦が楚を伐とうとして、使者をやって楚の宝器を見物させた。楚王はこれを聞き、令尹の子西を召して問うた。「秦が楚の宝器を見たいと言っている。わが和氏の璧、隨侯の珠を見せてよいものだろうか」。令尹の子西は答えた。「分かりません」。昭奚恤を召して問うた。昭奚恤は答えた。「これはわが国の強みと弱みを見て、それをもとに攻める算段をしようというのです。眼目は宝器にはなく、賢臣にあります。珠玉や愛玩の品は、宝として重んじるべきものではありません」。王はそこで昭奚恤に応対させた。
解説
見せてよいかどうか、という問いに、二人が違う答え方をしています。一人は判断を保留しました。分かりません。もう一人は、問いの前提を読み替えます。これはわが国の強みと弱みを見て、それをもとに攻める算段をしようというのです。相手が本当に見に来たものは何か。そこから答えが決まりました。眼目は宝器にはなく、賢臣にあります。何を見せるかではなく、何が見られているかを考えた人が、応対を任されます。
この章句が説くこと
秦楚を伐たんと欲し使者をして往きて楚の宝器を観しむ吾が和氏の璧随侯の珠以て諸を示す可きか此れ吾が国の得失を観て之を図らんと欲するなり宝器に在らず賢臣に在り珠玉玩好の物は宝重なる者に非ず外交宝
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