呂氏春秋 / 節喪①
審知生,聖人之要也;審知死,聖人之極也。知生也者,不以害生,養生之謂也;知死也者,不以害死,安死之謂也。此二者,聖人之所獨決也。
新字:審知生,聖人之要也;審知死,聖人之極也。知生也者,不以害生,養生之謂也;知死也者,不以害死,安死之謂也。此二者,聖人之所独決也。
書き下し
審らかに生を知るは、聖人の要なり。審らかに死を知るは、聖人の極なり。生を知るとは、以て生を害せずして、生を養うの謂なり。死を知るとは、以て死を害せずして、死に安んずるの謂なり。此の二つの者は、聖人の獨り決する所なり。
現代語訳
生を明らかに知ることは、聖人の最も肝要なところである。死を明らかに知ることは、聖人の究極である。生を知るとは、生を害することなく生を養うことをいう。死を知るとは、死を害することなく死者を安んじることをいう。この二つは、聖人だけが決することのできる事柄である。
解説
節喪篇の冒頭で、生を養うことと死を安んじることを、聖人の理解の要と極として並べて示します。生と死をともに正しく知り、いずれも害さないことが聖人の見識だとする点に、この篇全体を貫く死生観の枠組みが表れています。とりわけ「死に安んずる」ことを軽んじず重んじる姿勢が、後に展開される薄葬論の土台となります。現代でも、生き方だけでなく死や弔いのあり方を正面から考えることは、人生観を深める営みとして意味を持ち、終末期や葬送を見つめ直す視点に通じます。
この章句が説くこと
節喪生死観養生安死聖人死生
関連する章句
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呂氏春秋・愛士④凡そ敵人の來たるや、利を求むるを以てなり。今來たりて死を得れば、且く走ぐるを以て利と為す。敵皆走ぐるを以て利と為せば、則ち刃與に接する無し。故に敵、生を我に得れば、則ち我、死を敵に得。敵、死を我に得れば、則ち我、生を敵に得。夫れ生を敵に得ると、敵、生を我に得ると、豈に察せざる可けんや。此れ兵の精なる者なり。存亡死生は、此を知るに決せんのみ。
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孫子・始計篇孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。
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