呻吟語 / 外篇・廣喻・分別と不分別
無垢子浴面,拭之以巾,既而洗足,仍以其巾拭之。弟子曰:「”夕手”矣,先生之用物也,即不為物分清濁,豈不為身分貴賤乎?」無垢子曰:「嘻!汝何太分別也。足未濯時,面潔於足;足既濯時,何殊於面?面若不浴,面同於足,潔足污面,孰貴孰賤?」予謂弟子曰:「此禪宗也。」分別與不分別,此孔、釋之所以殊也。
新字:無垢子浴面,拭之以巾,既而洗足,仍以其巾拭之。弟子曰:「”夕手”矣,先生之用物也,即不為物分清濁,豈不為身分貴賤乎?」無垢子曰:「嘻!汝何太分別也。足未濯時,面潔於足;足既濯時,何殊於面?面若不浴,面同於足,潔足汚面,孰貴孰賤?」予謂弟子曰:「此禅宗也。」分別与不分別,此孔、釈之所以殊也。
書き下し
無垢子面を浴し、之を拭ふに巾を以てす。既にして足を洗ひ、仍ほ其の巾を以て之を拭ふ。弟子曰く、「夕手せり。先生の物を用ふるや、即ち物の為に清濁を分かたずんば、豈に身の為に貴賤を分かたざらんや」と。無垢子曰く、「嘻、汝何ぞ太だ分別するや。足未だ濯はざる時は、面は足より潔し。足既に濯ふ時は、何ぞ面に殊ならんや。面若し浴せずんば、面は足に同じ。足を潔くし面を污すは、孰れか貴く孰れか賤しからん」と。予弟子に謂ひて曰く、「此れ禪宗なり」と。分別と不分別と、此れ孔・釋の殊なる所以なり。
現代語訳
無垢子が顔を洗い、手拭いで拭きました。続いて足を洗い、同じ手拭いで拭きました。弟子が言いました。汚れました。先生が物を使うのに、物のために清濁を分けないとしても、身のために貴賤を分けないのですか。無垢子は言いました。おや、お前はなんとひどく分けたがるのか。足をまだ洗っていない時は、顔のほうが足より清い。足を洗った後は、顔と何が違うだろうか。顔を洗わなければ、顔は足と同じだ。足を清くし顔を汚せば、どちらが貴くどちらが賤しいだろうか。私は弟子に言いました。これは禅の考えだ。分けるか分けないか、これが孔子と釈迦の違うところです。
解説

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『呻吟語』内篇・談道・我を以て分別すれば、自ら是れ分別し得ず萬事萬物に分別有り、聖人の心に分別無し、因りて之を付するのみ。之を譬ふるに、日は萬物に因りて以て影を為し、水は萬川に因りて以て順ひ流る。而して日水は原と兩つ無し。未だ嘗て分別せずんばあらず、而れども我を以て之を分別するに非ざるなり。我を以て分別すれば、自ら是れ分別し得ず。
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