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呻吟語 / 内篇・談道・二氏は有を逃れ、聖人は有に善く處る

天地間惟無無累,有即為累。有身則身為我累,有物則物為我累。惟至人則有我而無我,有物而忘物,此身如在太虛中,何累之有?故能物我兩化。化則何有何無?何非有何非無?故二氏逃有,聖人善處有。

新字:天地間惟無無累,有即為累。有身則身為我累,有物則物為我累。惟至人則有我而無我,有物而忘物,此身如在太虚中,何累之有?故能物我両化。化則何有何無?何非有何非無?故二氏逃有,聖人善処有。

書き下し

天地の間、惟だ無のみ累無し。有れば即ち累と為る。身有れば則ち身我が累と為り、物有れば則ち物我が累と為る。惟だ至人のみ則ち我有りて我無く、物有りて物を忘る。此の身太虛の中に在るが如し、何の累か之れ有らん。故に能く物我兩ながら化す。化すれば則ち何をか有り何をか無からん。故に二氏は有を逃れ、聖人は善く有に處る。

現代語訳

天地のあいだで、無だけが煩わしさを持ちません。有ればそれが煩わしさになります。身があれば身が煩わしさになり、物があれば物が煩わしさになります。ただ至人だけは、我がありながら我が無く、物がありながら物を忘れます。この身がまるで大いなる虚空の中にあるようで、何の煩わしさがあるでしょうか。だから物と我の両方が溶けます。溶けてしまえば、何が有り、何が無いというのでしょう。だから仏道の二家は有から逃げ、聖人は有に上手に処するのです。

解説

持てば煩わしい、という前提は仏道と同じところから出発します。しかし結論が分かれる。逃げるか、上手に処するか。呂坤は聖人を後者に置きます。身も物も持ったまま、それに縛られない。捨てられない現実の中で生きる者にとっては、こちらのほうが道が残されていると感じられる一段でしょう。捨てられない者にこそ、道が残されている一段です。

この章句が説くこと

有無執着物我処世至人

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