呻吟語 / 外篇・廣喻・是非の一なり難きこと久し
有膾炙於此,一人曰鹹,一人曰酸,一人曰淡,一人曰辛,一人曰精,一人曰粗,一人曰生,一人曰熟,一人曰適口,未知誰是。質之易牙而味定矣。夫明知易牙之知味,而未必已口之信從,人之情也。況世未必有易牙,而易牙又未易識,識之又來必信從已。嗚呼!是非之難一久矣。
新字:有膾炙於此,一人曰鹹,一人曰酸,一人曰淡,一人曰辛,一人曰精,一人曰粗,一人曰生,一人曰熟,一人曰適口,未知誰是。質之易牙而味定矣。夫明知易牙之知味,而未必已口之信従,人之情也。況世未必有易牙,而易牙又未易識,識之又来必信従已。嗚呼!是非之難一久矣。
書き下し
膾炙此に有り。一人は鹹しと曰ひ、一人は酸しと曰ひ、一人は淡しと曰ひ、一人は辛しと曰ひ、一人は精なりと曰ひ、一人は粗なりと曰ひ、一人は生なりと曰ひ、一人は熟せりと曰ひ、一人は口に適すと曰ふ。未だ誰か是なるかを知らず。之を易牙に質さば味定まらん。夫れ明らかに易牙の味を知るを知るも、未だ必ずしも已が口の信從せず。人の情なり。況んや世に未だ必ずしも易牙有らず、而して易牙も又た識り易からず、之を識るも又た未だ必ずしも已に信從せざるをや。嗚呼、是非の一なり難きこと久し。
現代語訳
ここになますや炙り肉があります。ある人は塩辛いと言い、ある人は酸っぱいと言い、ある人は薄いと言い、ある人は辛いと言い、ある人は細かいと言い、ある人は粗いと言い、ある人は生だと言い、ある人は煮えていると言い、ある人は口に合うと言います。誰が正しいか分かりません。名料理人の易牙に尋ねれば味が定まるでしょう。しかし易牙が味を知っていると分かっていても、自分の口が従うとは限りません。人の情です。まして世に必ずしも易牙がおらず、易牙がいても見分けにくく、見分けても自分が従うとは限りません。ああ、是非が一つに定まりにくくなって久しい。
解説
同じ料理への評価が九通りに分かれる場面から始めます。専門家に尋ねれば定まるはずですが、そこから三重の困難が示されます。専門家がいるとは限らず、いても見分けられず、見分けても自分の口が従いません。前に出てきた、聖人がいても十人が引き下がらないという段と同じ構図が、味覚という身近な例で示された一段になっています。
この章句が説くこと
味九通り易牙三重是非
関連する章句
-
『呻吟語』外篇・治道・是非將た安くにか決を取らん聖人此に有り、十人と論爭す。聖人の論は是なり。十人も亦た各おの己の論を是として以て相ひ持し、之を下す能はず。旁觀者に至りては聖人を是とする者有り、十人を是とする者有り、之を定むる能はず。必ず一聖人有りて至りて、方めて是れ聖人の論なり。而して十人なる者、旁觀者は、又た未だ必ずしも後に至る者を以て聖人と為さず。又た未だ必ずしも聖人の是を是とする聖人ならず。然らば則ち是非將た安くにか決を取らん。昊天の詩人は、王の邪謀に惑ひて、斷じて以て善に從ふ能はざるを怨む。噫。
-
『呻吟語』外篇・廣喻・膾炙の人と腥を言ふ日に膾炙を食らふ者は、日に其の美を見る。若し一日も無かる可からざるがごとし。素食すること三月、肉の味を聞けば只だ其の腥を覺ゆるのみ。今膾炙の人と腥を言はば、豈に訝らざらんや。
-
『呻吟語』外篇・品藻・各おの偏執を騁す聖人の口を理むるは易く、眾人の口を理むるは難し。至人の口は眾人と為り易く、眾人の口は聖人と為り難し。豈に直だ當時の毀譽のみならんや。即ち千古の英雄豪傑の士、節義正直の人も、一たび議論の家に入れば、彼は臧し此は否とし、各おの偏執を騁せて、互ひに雌黃を為す。
-
『呻吟語』外篇・詞章・大羹玄酒と膾炙珍羞聖人の言は、簡淡明直の中に無窮の味有り。大羹玄酒なり。賢人の言は、一見便ち透り、而して理趣充溢す。之を讀めば人をして豁然たらしむ。膾炙珍羞なり。
-
『呻吟語』外篇・治道・真正の題目を尋ね著けず今天下の一切の人、一切の事は、都て是れ苟且に做し、真正の題目を尋ね著けず。便ち題目を認め了はるも、真正の滋味を嘗め著けず。三代の治を望まんと欲するも甚だ難し。
-
『呻吟語』内篇・存心・心を見ずして口に任じ、人に屈するを恥ぢて勝を好む室中の鬥、市上の爭は、彼の據る所各〻一方有ればなり。一方の見は皆己を是として人を非とし、之を濟ふに相下らざるの氣を以てす。故に寧ろ死すとも平らかならず。嗚呼、此れ猶ほ愚人なり。賢臣の政を爭ひ、賢士の理を爭ふも、亦た然り。此れ言語の日〻多くして、後來の者益〻決擇する所を知る莫き所以なり。故に下愚の人の為に法吏と作るは易く、士君子の為に折衷する所は難し。斷ずるの難きに非ずして、服せしむるの難きなり。根本の處は、心を見ずして口に任じ、人に屈するを恥ぢて勝を好むに在り。是れ室人市兒の見なり。