呻吟語 / 内篇・存心・心を見ずして口に任じ、人に屈するを恥ぢて勝を好む
室中之鬥,市上之爭,彼所據各有一方也。一方之見皆是己非人,而濟之以不相下之氣,故寧死而不平。嗚呼!此猶愚人也。賢臣之爭政,賢士之爭理,亦然。此言語之所以日多,而後來者益莫知所決擇也。故為下愚人作法吏易,為士君子所折衷難。非斷之難,而服之難也。根本處,在不見心而任口,恥屈人而好勝,是室人市兒之見也。
新字:室中之鬥,市上之争,彼所拠各有一方也。一方之見皆是己非人,而済之以不相下之気,故寧死而不平。嗚呼!此猶愚人也。賢臣之争政,賢士之争理,亦然。此言語之所以日多,而後来者益莫知所決択也。故為下愚人作法吏易,為士君子所折衷難。非断之難,而服之難也。根本処,在不見心而任口,恥屈人而好勝,是室人市児之見也。
書き下し
室中の鬥、市上の爭は、彼の據る所各〻一方有ればなり。一方の見は皆己を是として人を非とし、之を濟ふに相下らざるの氣を以てす。故に寧ろ死すとも平らかならず。嗚呼、此れ猶ほ愚人なり。賢臣の政を爭ひ、賢士の理を爭ふも、亦た然り。此れ言語の日〻多くして、後來の者益〻決擇する所を知る莫き所以なり。故に下愚の人の為に法吏と作るは易く、士君子の為に折衷する所は難し。斷ずるの難きに非ずして、服せしむるの難きなり。根本の處は、心を見ずして口に任じ、人に屈するを恥ぢて勝を好むに在り。是れ室人市兒の見なり。
現代語訳
家の中の争い、市場でのいさかいは、それぞれが一方に立っているからです。一方から見れば自分が正しく相手が誤っており、そこへ引き下がらない気が加わります。だから死んでも収まりません。ああ、これはまだ愚かな人の話です。賢い臣が政を争い、賢い士が理を争うのも同じです。だから言葉は日に日に増え、後から来る者はますますどちらを取るべきか分からなくなります。ですから愚かな人のために裁く役人になるのはたやすく、立派な人物同士のあいだを取り持つのは難しい。裁くのが難しいのではなく、納得させるのが難しいのです。根本のところは、心を見ずに口に任せ、人に屈するのを恥じて勝ちたがることにあります。これは家の者や市場の子どもと同じ見方です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『武士道』第八章 名譽・新井白石と小蛇の創史上、哀事多し。されど未だ人類の母エバが、騒立つ胸、戦く指に、粗き針取りて、憂に沈める良人の摘み与ふる無花果の葉を綴るの光景の如く哀しきはあらず。神明に背く覿面の罪果は、人間に固着して離るべからず。裁縫の技の如何に精妙を極むとも、未だ羞恥を包むに足るべき蔽膝を縫ふ能はず。新井白石の年少うして苦学するや、富人某といふものあり、其志の超凡なるを見、之に孫女を妻はし、且つ給するに勤学の資を以てせんと乞ひしに、白石之を辞し、『昔、霊潭に小蛇棲めり。人あり小刀を抜き、其腮に微傷を負はしむるや、たちまち丈余の大蛇と化して斃れ、頭上に尺余の創痕を有したりと云ふ。富人の欲する所は、即ち小蛇を傷くることなり。されど後来、我れ家を興し、名を成さんには、其創ことに大なるものあらん。
-
『武士道』第八章 名譽・恥を知るは諸徳の原たとひ微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらず』と。白石の既に少年の日に当り、いやしくも節を屈し、恥を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪の心は義の端なり』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして曰へり。『恥を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は恥を恐るること甚だしきものありき。我国文学は、シェイクスピアがノーフォークの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、なお恥を恐るるの念は、武士の頭上に懸れるダモクレスの剣なりき。然り、恥を恐るるは大に可なり。されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。
-
論語・憲問篇憲、恥を問う。子曰わく、邦に道あれば穀し、邦に道無くして穀するは、恥なり。
-
『正法眼蔵随聞記』巻三是れに愧て辞すといへども、猶終に首座に請す、其の後元首座此の詞はを記録して、自らを愧しめて師の美言を顕はす、今ま是を案ずるに、昇進を望み、物のかしらとなり、長老とならんと思ふことをば、古人是を慚ぢしむ、只道を悟らんとのみ思ふて余事あるべからず、
-
『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、人を愧づべくんば明眼の人を愧づべし、予在宋の時天童の浄和尚、侍者に請するにいはく、元子は外国人たりといへども、器量人なりと云ふて請す、予堅く此を辞す、其故は和国に聞へん為にも、学道の稽古の為にも、大切なれども、衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと、大国に人なきに似たりと難ずることやあらん、最もはぢつべしと思ひて、書状を以て此旨をのべしかば、浄和尚聞て、国を重んじ、人を愧づることを感じ、許して更に請し玉はざりしなり、
-
『呻吟語』内篇・修身・邪僻を蹈めば肆志抗額邪僻を蹈めば、則ち志を肆にし額を抗げて略ぼ顧忌する所無し。義禮に由れば、則ち頭を羞ぢ面を愧ぢて以て自ら容るる無きが若し。此れ愚不肖の恒態にして、士君子の大恥なり。