呻吟語 / 外篇・廣喻・長安に適く者
或問:「士希賢,賢希聖,聖希天,何如?」曰:「體味之不免有病。士賢聖皆志於天,而分量有大小,造詣有淺深者也。譬之適長安者,皆志於長安,其行有疾遲,有止不止耳。若曰跬步者希百里,百里者希千里,則非也。故造道之等,必由賢而後能聖,志之所希,則合下便欲與聖人一般。」
新字:或問:「士希賢,賢希聖,聖希天,何如?」曰:「体味之不免有病。士賢聖皆志於天,而分量有大小,造詣有浅深者也。譬之適長安者,皆志於長安,其行有疾遅,有止不止耳。若曰跬歩者希百里,百里者希千里,則非也。故造道之等,必由賢而後能聖,志之所希,則合下便欲与聖人一般。」
書き下し
或るひと問ふ、「士は賢を希ひ、賢は聖を希ひ、聖は天を希ふとは、何如」と。曰く、「之を體味するに病有るを免れず。士賢聖は皆な天に志すも、分量に大小有り、造詣に淺深有る者なり。之を長安に適く者に譬ふれば、皆な長安に志す。其の行くに疾遲有り、止むと止まざると有るのみ。若し跬步する者は百里を希ひ、百里なる者は千里を希ふと曰はば、則ち非なり。故に道を造むるの等は、必ず賢に由りて而る後に聖と能る。志の希ふ所は、則ち合下便ち聖人と一般ならんと欲す」と。
現代語訳
ある人が問いました。士は賢を望み、賢は聖を望み、聖は天を望むというのはどうですか。答えて言う。よく味わえば難があります。士も賢も聖もみな天に志すのですが、分量に大小があり、到達に浅い深いがあるだけです。長安へ行く者に譬えれば、みな長安を目指しています。ただ歩みに速い遅いがあり、止まるか止まらないかがあるだけです。もし半歩の者が百里を望み、百里の者が千里を望むと言うなら、間違いです。だから道を修める段階は、必ず賢を経て聖になります。しかし志が望むところは、最初から聖人と同じでありたいと思うのです。
解説
段階を追って上を望むという通説に、難があると答えます。全員が最初から天を目指していて、違うのは分量と到達の深さだけだからです。長安へ行く旅人の譬えが使われ、目的地は同じで速さと止まり方が違うとされます。そして結論が二分されます。修める段階は順を追うが、志は最初から最上を望む。過程と志を分けた一段です。
この章句が説くこと
士賢聖長安目的地段階志
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