呻吟語 / 外篇・廣喻・鑒は自ら照らす能はず
鑒不能自照,尺不能自度,權不能自稱,圍於物也。聖人則自照、自度、自稱,成其為鑒、為尺、為權,而後能妍媸長短,輕重天下。
新字:鑒不能自照,尺不能自度,権不能自称,囲於物也。聖人則自照、自度、自称,成其為鑒、為尺、為権,而後能妍媸長短,軽重天下。
書き下し
鑒は自ら照らす能はず、尺は自ら度る能はず、權は自ら稱る能はず。物に圍まるればなり。聖人は則ち自ら照らし、自ら度り、自ら稱り、其の鑒為り、尺為り、權為るを成して、而る後に能く天下を妍媸長短し、輕重す。
現代語訳
鏡は自分を照らせず、物差しは自分を測れず、秤は自分を量れません。物に囲まれているからです。聖人は自分を照らし、自分を測り、自分を量り、鏡であり物差しであり秤であることを成し遂げて、その後に天下の美醜と長短を判じ、軽重を量れます。
解説
測る道具が自分を測れないことを、まず示します。鏡も物差しも秤も同じです。そして聖人は自分に対してそれができるとされます。自分を照らし測り量ることで、初めて道具として成り立つわけです。他人を判じる前に自分を判じるという順序が、道具の比喩で示された一段になっています。他人を判じる前に、自分を判じるという順序です。道具の比喩で、順番がはっきり示されています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
鏡尺権自照順序
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『翁問答』下卷之末嫂溺は非常の変にしてこれをすくふ礼法なければ、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは礼なりといはずして権なりといへり、権は道の総名なれば、権即ち道、道即ち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり、此章、男女授受するに親らせざるは礼なり、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは道なりとならば、経に反して道に合ふの見あやまりあるまじ、権也といへるによつて、権の字になずみてうたがひあるなり、此章の主意、礼と権との弁をあかすにあらず、儒者の道は法におちずあとになづまず、上天時に律り下水土に襲て至善に止を本とすることを開示するものなり、淳于髡をのれが私心をもて孟子にうかゞひ、孟子は当時の諸侯の無礼をにくみつかへめされざるを見て、礼法になづみたる人なりと思ふによつて、嫂溺の事を寓言して孟子を諷したり、しかる故に孟子儒者の道は専権をもて主本として物に凝滞せず迹になづまず、活溌なることをしらしめて、その迷ひをとかんために道とはいはずして権也と論じめされたり。
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『翁問答』下卷之末体充曰、子曰く、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず、与に道に適くべし、未だ与に立つべからず、与に立つべし、未だ与に権るべからず、此聖謨を以て見れば、権は初学の取さたすべきことにあらずと存候はいかゞ。師の曰、此聖謨は学者の面々のいたる所の位をよしと画して上達の志あつからざるをいましめ引たてたまふ主意なり、初学の者権を取さたすべからずとのたまふにはあらず、可与共の学は、即ち此権の道をまなぶ学なり、可与適の道も、即ち此権の道なり、可与立の道も即ち此権の道なり権の外に道なし、道の外に権なし、権の外に学なく学の外に権なし、但その受用に生熟、大小、精粗の差別あるのみ、しかる故に此聖謨の主意は、工夫成就の次第をあかして至極無上の神道を指出して、学者の準的を示たまふものなり、孟子性善を道ひ、言へば必ず堯舜を称す、公明儀曰く、文王は我が師なり、周公豈我を欺かんや、かくの如きの賢範をよく体験して明に弁知べし、若この準的をしらざるときは心学の徒なりとも、欣真落法の地に執滞して、非礼の礼多あるべし。
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『翁問答』下卷之末大賢以下の人は気質の累ありて明徳くらく、権をおこなふこと能はざる故に、聖人天下のために礼法を定たまふ、此礼法もすなはち権の道なれ共、すでに法に定ぬれば迹ありて変通の活溌なきによつて、権といはずして礼法といふなり、此意をしらず徒に礼法の迹を真実の道なりと心得て、聖人立法の本意権道の妙をさとらずして、礼法になずみて専にとりおこなひ、時中の神理にそむくをば、非礼の礼となづけて君子のせざる所なり、此非礼の礼をも真実の礼なりと迷ひたる人、聖賢の行迹礼法にちがひたるを見てうたがひをなし、礼と権は各別なりなど、得心するなり、此権の字の精義をしらざれば、心学に志ありて致知力行をはげますと云とも、必欣真落法の地にまよふべし、大学の能慮は此権を詳に分別する工夫なり、能得は此権を得心受用するものなり、法ありて法にあらず、在ゆるところなくして在ざる所なく、定ところなくして定らざる処なき権字の理味を、よくよく体認すべし。
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『翁問答』下卷之末体充曰、洪氏曰く、権は聖人の大用なり、未だ立つこと能はずして権を言ふは、猶ほ人の未だ立つこと能はずして行かんと欲するがごとし、仆れざること鮮し、此格言にて見申候へば、先生の教等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は権を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、権の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、権の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、権道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の権にそむけり、禅を学ぶ人此心地にまよへりこれは権の体段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを権の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、