呻吟語 / 外篇・人情・爾我の二字
今人骨肉之好不終,只為看得爾我二字太分曉。
新字:今人骨肉之好不終,只為看得爾我二字太分暁。
書き下し
今人の骨肉の好の終はらざるは、只だ爾我の二字を看得ること太だ分曉なるが為なり。
現代語訳
今の人の肉親の交わりが最後まで続かないのは、ただお前と自分という二字をあまりにはっきり区別して見るからです。
解説
肉親の仲が続かない理由を、一点に絞ります。お前と自分の区別をはっきりさせすぎること。境界が明確になれば、取り分の計算が始まります。肉親でさえそうだということが、この段の重さです。境界を曖昧にしておくことが関係を保つという見方で、公私を厳しく分ける議論とは別の領域の話になっています。肉親でさえそうだ、という点にこの段の重さがあります。
この章句が説くこと
骨肉爾我境界取り分曖昧
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