呻吟語 / 外篇・治道・公私の二字は宇宙の人鬼關
公私兩字,是宇宙的人鬼關。若自朝堂以至閭裡,只把持得公字定,便自天清地寧,政清訟息;只一個私字,擾攘得不成世界。
新字:公私両字,是宇宙的人鬼関。若自朝堂以至閭裡,只把持得公字定,便自天清地寧,政清訟息;只一個私字,擾攘得不成世界。
書き下し
公私の兩字は、是れ宇宙の人鬼關なり。若し朝堂より以て閭裡に至るまで、只だ公の字を把持し得て定まれば、便ち自ら天清く地寧く、政清く訟息む。只だ一個の私の字にて、擾攘して世界を成さず。
現代語訳
公と私の二字は、宇宙における人と鬼の関門です。もし朝廷から村里に至るまで、ただ公の字を掴んで定まれば、自ずと天は清く地は静かになり、政は清く訴訟は止みます。ただ一つの私の字で、乱れ騒いで世界の体を成しません。
解説
公と私を、人と鬼を分ける関門だと言います。境界線を一つに絞った、強い言い方です。そして範囲が示されます。朝廷から村里まで、どの段でも同じ字が問われる。地位によって基準が変わらないということです。公が定まれば訴訟まで止み、私が一つあれば世界の体を成さない。効果と害が極端に振れるのは、これが根の一字だからでしょう。
この章句が説くこと
公私関門境界全階層根
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