呻吟語 / 外篇・治道・寧ろ盜劫に逢ふとも、官賒に逢ふ無かれ
百姓寧賤售而與民為巿,不貴值而與官為巿。故物滿於廛,貨充於肆,官求之則不得,益價而求之亦不得。有一官府欲採繒,知巿直,密使吏增直,得之。既行,而商知其官買也,追之,已入公門矣。是商也,明日逃去。人謂商曰:「此公物不虧值。」曰:「吾非為此公。今日得我一繒,他日責我無極。人人未必皆此公,後日未必猶此公也。減直何害?甚者經年不予直;遲直何害?甚者竟不予直;一物無直何害?甚者數取皆無直。吏卒因而附取亦無直。無直何害?甚者無是貨也而責之有,捶楚亂加。為之遍索而不得,為之遠求而難待。誅求者非一官,逼取者非一貨,公差之需索,公門之侵扣,價銀之低假又不暇論心。嗟夫!寧逢盜劫,無逢官賒。盜劫猶申冤於官,官賒則無所赴訴矣。」予聞之,謂僚友曰:「民不我信,非民之罪也。彼固求貨之出手耳,何擇於官民?又何親於民而何仇於官哉?無輕取,無多取,與民同直而即日面給焉,年年如是,人人如是,又禁府州懸之不如是者,百姓獨非人哉?無彼尤也。」
新字:百姓寧賤售而与民為巿,不貴值而与官為巿。故物満於廛,貨充於肆,官求之則不得,益価而求之亦不得。有一官府欲採繒,知巿直,密使吏增直,得之。既行,而商知其官買也,追之,已入公門矣。是商也,明日逃去。人謂商曰:「此公物不虧值。」曰:「吾非為此公。今日得我一繒,他日責我無極。人人未必皆此公,後日未必猶此公也。減直何害?甚者経年不予直;遅直何害?甚者竟不予直;一物無直何害?甚者数取皆無直。吏卒因而附取亦無直。無直何害?甚者無是貨也而責之有,捶楚乱加。為之遍索而不得,為之遠求而難待。誅求者非一官,逼取者非一貨,公差之需索,公門之侵扣,価銀之低仮又不暇論心。嗟夫!寧逢盗劫,無逢官賒。盗劫猶申冤於官,官賒則無所赴訴矣。」予聞之,謂僚友曰:「民不我信,非民之罪也。彼固求貨之出手耳,何択於官民?又何親於民而何仇於官哉?無軽取,無多取,与民同直而即日面給焉,年年如是,人人如是,又禁府州懸之不如是者,百姓独非人哉?無彼尤也。」
書き下し
百姓は寧ろ賤く售りて民と巿を為すとも、貴き値もて官と巿を為さず。故に物は廛に滿ち、貨は肆に充つるも、官之を求むれば則ち得ず、價を益して之を求むるも亦た得ず。一官府有り繒を採らんと欲す。巿直を知り、密かに吏をして直を增さしめ、之を得たり。既に行きて、商其の官買なるを知り、之を追ふ。已に公門に入れり。是の商や、明日逃げ去る。人商に謂ひて曰く、「此の公の物は值を虧かず」と。曰く、「吾は此の公の為にするに非ず。今日我が一繒を得なば、他日我に責むること極まり無し。人人未だ必ずしも皆な此の公ならず、後日未だ必ずしも猶ほ此の公ならざればなり。直を減ずるも何ぞ害あらん。甚だしき者は經年直を予へず。直を遲らすも何ぞ害あらん。甚だしき者は竟に直を予へず。一物に直無きも何ぞ害あらん。甚だしき者は數しば取りて皆な直無し。吏卒因りて附取するも亦た直無し。直無きも何ぞ害あらん。甚だしき者は是の貨無きに之に有るを責め、捶楚亂りに加ふ。之が為に遍く索めて得ず、之が為に遠く求めて待ち難し。誅求する者は一官に非ず、逼取する者は一貨に非ず。公差の需索、公門の侵扣、價銀の低假は又た心を論ずるに暇あらず。嗟夫、寧ろ盜劫に逢ふとも、官賒に逢ふ無かれ。盜劫は猶ほ冤を官に申ぶるも、官賒は則ち赴きて訴ふる所無し」と。予之を聞き、僚友に謂ひて曰く、「民の我を信ぜざるは、民の罪に非ざるなり。彼は固より貨の手より出づるを求むるのみ。何ぞ官民を擇ばん。又た何ぞ民に親しみて何ぞ官を仇とせんや。輕く取る無く、多く取る無く、民と直を同じくして即日面もて給せよ。年年是の如く、人人是の如く、又た府州懸の是の如くならざる者を禁ぜよ。百姓獨り人に非ざらんや。彼の尤め無からん」と。
現代語訳
民はむしろ安く売って民と取引しても、高い値で官と取引しません。だから物は店に満ち貨は市に充ちているのに、官が求めれば得られず、値を上げて求めても得られません。ある役所が絹を買おうとしました。市価を知り、密かに役人に値を上乗せさせて手に入れました。取引が済んでから、商人が官の買い物だと知って追いかけましたが、すでに役所の門に入っていました。この商人は、翌日逃げ去りました。人が商人に言いました。この方の買い物は値を欠きません。答えて言う。私はこの方のためにするのではありません。今日私の絹を一つ得れば、後日際限なく求められます。誰もがこの方のようではなく、後日もこの方のままとは限りません。値を減らされるくらい何でもない。ひどい場合は年を越えても払われません。払いが遅れるくらい何でもない。ひどい場合はついに払われません。一つの物が無償なくらい何でもない。ひどい場合は何度も取ってすべて無償です。役人がついでに取るのも無償です。無償なくらい何でもない。ひどい場合はその品が無いのに有ると責め、むやみに打ちます。そのために方々探しても得られず、遠くへ求めても待てません。取り立てるのは一つの役所ではなく、迫って取るのは一つの品ではありません。公用の使者の要求、役所での差し引き、支払いの銀の粗悪さは、いちいち心を論じる暇もありません。ああ、むしろ盗賊に遭っても、官の掛け買いに遭うな。盗賊なら官に冤を訴えられますが、官の掛け買いは訴える先がありません。私はこれを聞いて同僚に言いました。民が我々を信じないのは、民の罪ではありません。彼らはただ品が売れることを求めるだけです。どうして官と民を選ぶでしょうか。どうして民に親しみ官を仇とするでしょうか。軽々しく取らず、多く取らず、民と同じ値でその日に直接支払いなさい。毎年そうし、誰もがそうし、さらに府州県でそうしない者を禁じなさい。民だけが人でないでしょうか。彼らに咎はありません。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』外篇・治道・民を憂ひて以て相ひ奉ず卑卑たる世態、裊裊たる人情は、下に在る者は工にして道を以てせざるの悅び、上に在る者は悅びて道を以てせざるの工なり。奔走揖拜の日多くして、公務填委す。簡書酬酢の文盛んにして、民事聞くこと罔し。時光は只だ此の時光有り、精神は只だ此の精神有り。專らにする所此に在らば、則ち疏なる所彼に在り。朝廷の官を設くるは本と己を勞して以て民を安んずるなり。今や民を憂ひて以て相ひ奉ずるなり。
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『呻吟語』外篇・治道・政は地に因りて之を定め、官は人を擇びて之を守る古は國君を易へず、家大夫を易へず。故に其の治は民に因り俗に宜しく、綱を立て紀を陳ぶ。百姓と己と相ひ安んじ、然る後に從容漸漬し、日に新たに月に盛んにして、治功成る。故に「必世にして後に仁」と曰ひ、「久道にして化を成す」と曰ふ。之を天地に譬ふるに悠久ならざれば便ち物を成し得ず。封建變じて郡懸と為りてより、官に久暖の席無く、民に盡識の官無し。施設未だ竟へずして讒毀之に隨ひ、官を建てて未だ久しからずして黜陟之に隨ふ。方に熊蹯を朘りて之が薪を奪ひ、方に茧絲を繅りて其の緒を截つ。一番の人至れば、一度の更張あり。各おの性情有り、各おの識見有り。百姓は其の政令を聞くも半ばは理會するに及ばず、其の教化を聽くも尚ほ未だ信從するに及ばずして、新しき者卒かに至り、舊政廢閣す。何ぞ信從する所あらん。何ぞ遵守する所あらん。況んや加ふるに監司の掣肘を以てし、一幘を制して首の大小を問はず、都て之に冠せしめ、一衣を制して時の冬夏を問はず、必ず之を服せしむ。民情の便否を審らかにせずして、先づ書を以て督責す。即ち高才疾足の士も、俄頃措置の功、亦た目前の小康、一事の小補に過ぎず。而るに上は此れを以て殿最と為し、下は此れを以て歡虞と為す。嗚呼、傷心せり。先正に言有り、人里居せず、田井授せずんば、治を言はんと欲すと雖も、皆な苟のみと。愚謂へらく官を建つるも亦た然り。政は地に因りて之を定め、官は人を擇びて之を守る。政善ければ更張するを得ず、民安んずれば法を易ふるを得ず。其の多事にして民を擾し、情に任せて法を變ずると、惰政慢法なる者とは斥け遂ふ。其の人を更めて其の治を易へざれば、則ち郡懸は封建より賢なること遠し。
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『呻吟語』外篇・治道・尸位素餐の四字を逃れ得ず財を傷らず、民を害せざるは、只だ是れ虐を為さざるのみ。苟しくも官を設けて惟だ之を虐ぐるを慮らば、官を設けずんば其れ誰か之を虐げん。正に家給し人足り、風移り俗易はり、利を興し害を除き、危を轉じて安に就くが為のみ。設し廉靜寡慾にして、分毫も民に損する無きも、萬事廢弛して、分毫も民に益する無くんば、尸位素餐の四字を逃れ得ず。
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