呻吟語 / 外篇・治道・自然の感無くして徒だに勢ひに迫らる
古之聖王不盡人之情,故下之忠愛嘗有餘。後世不然,平日君臣相與僅足以存體面而無可感之恩,甚或拂其心而壞待逞之志,至其趨大事、犯大難,皆出於分之不得已。以不得已之心供所不欲之役,雖臨時固結,猶死不親,而上之誅求責又復太過,故其空名積勢不足以鎮服人心而庇其身國。嗚呼!民無自然之感而徒迫於不得不然之勢,君無油然之愛而徒劫之不敢不然之威,殆哉!
新字:古之聖王不尽人之情,故下之忠愛嘗有余。後世不然,平日君臣相与僅足以存体面而無可感之恩,甚或払其心而壊待逞之志,至其趨大事、犯大難,皆出於分之不得已。以不得已之心供所不欲之役,雖臨時固結,猶死不親,而上之誅求責又復太過,故其空名積勢不足以鎮服人心而庇其身国。嗚呼!民無自然之感而徒迫於不得不然之勢,君無油然之愛而徒劫之不敢不然之威,殆哉!
書き下し
古の聖王は人の情を盡くさず。故に下の忠愛嘗て餘り有り。後世は然らず。平日の君臣相ひ與するは僅かに以て體面を存するに足りて感ず可きの恩無し。甚だしきは或いは其の心に拂ひて逞ぜんと待つの志を壞る。其の大事に趨き大難を犯すに至りては、皆な分の已むを得ざるより出づ。已むを得ざるの心を以て欲せざる所の役に供すれば、臨時に固結すと雖も、猶ほ死して親しまず。而して上の誅求責むること又復た太だ過ぐ。故に其の空名積勢は以て人心を鎮服して其の身國を庇ふに足らず。嗚呼、民に自然の感無くして徒だに已むを得ざるの勢ひに迫られ、君に油然の愛無くして徒だに之を敢へて然らざるを得ざるの威に劫かせば、殆ふいかな。
現代語訳
昔の聖王は人の情を尽くさせませんでした。だから下の忠と愛にはいつも余りがありました。後の世はそうではありません。平生の君臣の交わりは体面を保つに足りるだけで、感じるべき恩がありません。ひどい場合は心に背いて、思い切りやろうという志を壊します。大事に赴き大難を犯すときは、みな分としてやむを得ないから出ています。やむを得ない心で望まない役を務めれば、その場では固く結んでも、やはり死んでも親しみません。そのうえ上の取り立てと責めが行きすぎます。だからその空しい名と積み上げた勢いは、人心を鎮め服させて身と国を庇うに足りません。ああ、民に自然な感が無くただやむを得ない勢いに迫られ、君に自然な愛が無くただ敢えてそうしないわけにいかない威で脅すなら、危ういことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『呻吟語』外篇・治道・先王何を以て此れを人に得たるか聖人の人心を感ぜしむるは患難の處に於て更に驗あり。蓋し聖人は平日仁もて漸し義もて摩し、深思厚澤、人心に入る者化するなり。難に臨み倉卒の際に處するに及びて、何ぞ思圖するに暇あらん。見成の念頭を拿み出だし來たれば、便ち以て軀を捐て義に赴くに足る。我此れを以て名を成すと曰ふに非ず、我此れを以て君に報ゆるに非ず。彼固より亦た自ら其の何為れぞと知らずして、迫切して此に至るなり。其の次は軀を捐てて志は報を圖るに在り。其の次は感じ易くして終に難し。其の次は厚賞して以て其の感を激す。噫、此に至りて上下の相ひ與すること薄く、交孚の志解けたり。嗟夫、先王は何を以て此れを人に得たるか。
-
『呻吟語』外篇・治道・敢へて怒るの心を懷く夫れ民は敢へて怒るの心を懷き、敢へて犯さざるの法を畏れ、以て乘ず可きの釁を待つ。眾心已に離れて、上の人且つ其の虐を恣にして以て之を甚だしくす。此れ桀紂の亡ぶ所以なり。是を以て明王は自然の心を推し、同然の腹を置き、其の我に順ふ者の跡を恃まずして、其の我を怨む無き者の心を得んと欲す。其の意欲を體して拂ふに忍びず、民の心は盡くは之を聲色に見さずして、隱れて知り難き者の在る有るを知る。此れ因結深厚にして、子孫終に必ず之に賴る所以なり。
-
『呻吟語』外篇・治道・其の自然の機に觸れて自然の情を鼓す物理人情は、自然なるのみ。聖人は其の自然なる者を得て以て天下を觀る。而して天下の人は聖人の洞察を逃るる能はず。其の自然なる者を握りて以て天下を運らす。而して天下の人は聖人の斡旋する所と為るを覺えず。即ち其の軌物の矯拂に繩る所なるも、然れども其の人欲自然の私に拂ひて、其の天理自然の公に順ふ。故に倔強錮蔽の人有りと雖も、憬悟して馴服せざる莫し。則ち聖人は其の自然の機に觸れて其の自然の情を鼓すればなり。
-
『呻吟語』外篇・治道・薰陶の功を盡くす人情は是非利害を論ぜず、己に便なる者を樂しみ、己に便ならざる者を惡まざるは莫し。官に居り政を立つるに、殃民を論ずる無く、即ち教養諄諄、禁令惓惓たるは、何ぞ嘗て其の相ひ養ひ相ひ安んじ、禍を免れ罪に遠ざかるを欲せざらんや。然れども政一たび行はれて、未だ怨まざる者有らず。故に聖人は之に先んずるに躬行を以てし、之に浸すに口語を以てし、之に示すに好惡を以てし、之を激するに賞罰を以てす。日に積み月に累ね、意に耐へ心を精しくし、但だ薰陶の功を盡くして、俄頃の效を計らず。然る後に民は善の當に為すべく、惡の恥づ可きを知り、默化潛移して、聖人に服從す。今無本の令を以て、久しく散ぜる民に責め、旦夕の效を求め、從はざるの怒りを逞しくし、頑に忿疾して、敏德の治を望む。即ち我且つ亦た愚不肖なる者にして、何ぞ蚩蚩の氓を怪しまんや。
-
『呻吟語』外篇・治道・委曲必至の情を體す王道の人を感ぜしむる處は、只だ我が真誠怛惻の心を以て、其の委曲必至の情を體するに在り。
-
『呻吟語』外篇・治道・民を憂ひて以て相ひ奉ず卑卑たる世態、裊裊たる人情は、下に在る者は工にして道を以てせざるの悅び、上に在る者は悅びて道を以てせざるの工なり。奔走揖拜の日多くして、公務填委す。簡書酬酢の文盛んにして、民事聞くこと罔し。時光は只だ此の時光有り、精神は只だ此の精神有り。專らにする所此に在らば、則ち疏なる所彼に在り。朝廷の官を設くるは本と己を勞して以て民を安んずるなり。今や民を憂ひて以て相ひ奉ずるなり。