呻吟語 / 外篇・治道・霹靂手段に非ずんば
把天地間真實道理作虛套子幹,把世間虛套子作實事幹,吁!所從來久矣。非霹靂手段,變此錮習不得。
新字:把天地間真実道理作虚套子幹,把世間虚套子作実事幹,吁!所従来久矣。非霹靂手段,変此錮習不得。
書き下し
天地間の真實の道理を把りて虛套子と作して幹し、世間の虛套子を把りて實事と作して幹す。吁、從り來たる所久し。霹靂手段に非ずんば、此の錮習を變じ得ず。
現代語訳
天地の間の本当の道理を空虚な型として扱い、世間の空虚な型を本当の事として扱います。ああ、その由来は古い。雷のような手段でなければ、この凝り固まった習いを変えられません。
解説
本物と型が入れ替わっている状態を、一句で示します。本当の道理が形式として流され、形式のほうが本物として真剣に扱われる。そして由来が古いと断られます。長く続いたから、もはや誰も逆だと気づきません。だから雷のような手段が要るとされます。じわじわ直せないほど固まっているという判断で、強い手を正当化する理由になっています。
この章句が説くこと
本物形式逆転錮習霹靂
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・應務・習尚の人を壞るは狂泉を飲むが如し士君子の相與するや、必ず諸を禮義に協へ、世俗の計較一切を將て脫し盡くすを求む。今世禮を知ると號する者は、全く聖賢の本意を理會せず、只だ是れ節文習熟し、事體諳練し、燦然として觀る可し。人便ち之を稱し、自家欣然として自得し、泰然として人を責む。嗟夫、繁文彌いよ尚ばれてより先王の道湮沒す。天下の苦だ相責め、群がりて相逐ふ者は、皆な末世の靡文なり。之を道に求むれば、十に九は合はず。此れを之れ習尚と謂ふ。習尚の人を壞るは、狂泉を飲むが如し。
-
『墨子』魯問子墨子曰く、曹公子を出だして宋に於いてす。三年にして反る。子墨子を睹て曰く、「始め吾れ子の門に游びしとき、短褐の衣、藿羮も朝に之を得れば則ち夕に得ず、鬼神を祭祀す。而して夫子の政を以て家、始めより厚し。家、厚きこと有りて謹んで鬼神を祭祀す。然り而して人徒、多く死し、六畜、蕃らず、身は病に湛む。吾れ未だ夫子の道の用う可きを知らざるなり」と。子墨子曰く、「然らず。夫れ鬼神の人に欲する所の者は多し。人の髙爵禄に處らば則ち以て賢に讓り、財多ければ則ち以て貧に分かつを欲す。夫れ鬼神、豈に唯だ擢季拑肺を之れ欲せんや。今、子は髙爵禄に處りて以て賢に讓らず、一の不祥なり。財多くして以て貧に分かたず、二の不祥なり。今、子、鬼神に事うるは、唯だ祭るのみ。而して曰く、『病、何自り至れるか』と。是れ猶お百門にして一門を閉じて、『盜、何從り入らん』と曰うがごときなり。是くの若くして福を求むるは、怪の鬼に於いて有らんや。豈に可ならんや」と。
-
『武士道』原序・心に書かれたる律法を信ず予が同情を表する能はざるものは、即ち基督の教訓の光明を翳遮する伝道の形式なり。予は心に書かれたる律法を信じ、又た基督の教にして、新約全書を通じて吾人に伝へられたる宗教を信ず。而も亦た神は、異邦人たると、猶太人たると、基督教徒たると異教徒たるとを問はず、凡ての衆生に与ふるに、称して旧と名くべき約書を以てしたるものなるを信ず。予の神学説は此れを云ふを以て足れり、更に論じて世の倦厭を招くを要せず。明治三十二年十二月、費府郊外マルヴァーン村居にて、新渡戸稲造識。
-
論語・八佾篇子曰く、『禘は既に灌より往くもの、吾これを観るを欲せざるなり。』
-
『茶の本』第一章 人情の碗・シルクハットを得ることが文明かかくのごとき誤解は、われわれのうちからすみやかに消え去ってゆく。商業上の必要に迫られて、欧州の国語が東洋幾多の港に用いられるようになって来た。アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。私の同国人のうちには、諸君の習慣や礼儀作法をあまりに多く取り入れた者がある。こういう人は、こわばったカラや丈の高いシルクハットを得ることが、諸君の文明を得ることと心得違いをしていたのである。かかる様子ぶりは、実に哀れむべき嘆かわしいものであるが、ひざまずいて西洋文明に近づこうとする証拠となる。
-
論語・顔淵篇棘子成曰く、「君子は質のみ。何ぞ文を以て為さん。」子貢曰く、「惜しいかな、夫子の説、君子なり。駟も舌に及ばず。文は猶お質のごとく、質は猶お文のごときなり。虎豹の鞹は、猶お犬羊の鞹のごとし。」