葉隠 / 聞書第一
人相を見るは大將の專要なり。正成湊川にて正行に相渡し候一卷の書には、眼ばかり書きたりと云ひ傳へたり。人相に大秘事これあるなり。口傳。
新字:人相を見るは大将の専要なり。正成湊川にて正行に相渡し候一巻の書には、眼ばかり書きたりと云ひ伝へたり。人相に大秘事これあるなり。口伝。
書き下し
人相を見るは大将(たいしょう)の専要(せんよう)なり。正成(まさしげ)、湊川(みなとがわ)にて正行(まさつら)に相渡(あいわた)し候一巻(いっかん)の書には、眼(め)ばかり書きたりと云い伝えたり。人相に大秘事(だいひじ)これあるなり。口伝(くでん)。
現代語訳
人の相を見抜く力は、大将にとって最も肝要なものである。楠木正成が湊川の戦いで嫡子正行に授けたという一巻の書物には、ただ「眼」とだけ書いてあったと言い伝えられている。人相には重大な秘訣があるのだ。これは口伝で伝える。
解説
人を見抜く眼力こそ指導者に不可欠だ、と説く一節です。楠木正成が死を覚悟した湊川の合戦を前に、子の正行に授けた書には「眼」の一字だけが記されていた、という伝承を引きます。相手の本質を見抜く目を持て、という含意でしょう。武士社会では、人を用い、味方と敵を見極めることが将たる者の生死や家の存亡を左右しました。人相といっても占いではなく、相手の眼つきや佇まいから心根を読み取る観察力を指していると読めます。現代でも、人を率いる立場では、誰を信じ誰に任せるかを見極める眼が問われます。詳細は口伝とされ、言葉で尽くせぬ経験知の領域だと示す点も、この教えの奥行きを感じさせます。
この章句が説くこと
人を見る目眼力洞察人材の見極めリーダーの資質観察力
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