呻吟語 / 外篇・治道・官は精を貴び多きを貴ばず
官貴精不貴多,權貴一不貴分。大都之內,法令不行,則官多權分之故也,故萬事俱馳。
新字:官貴精不貴多,権貴一不貴分。大都之内,法令不行,則官多権分之故也,故万事倶馳。
書き下し
官は精を貴びて多きを貴ばず。權は一を貴びて分かるるを貴ばず。大都の內、法令行はれざるは、則ち官多く權分かるるの故なり。故に萬事俱に馳る。
現代語訳
官は精しさを貴び多さを貴びません。権は一つであることを貴び分かれることを貴びません。大きな都で法令が行われないのは、官が多く権が分かれているからです。だから万事がともに緩みます。
解説
官の多さと権の分散を、法令が行われない原因として名指します。人が多いほど良さそうに見えますが、逆だという主張です。権が分かれれば誰も最終の責任を負わず、万事が緩みます。前に出てきた、朝廷に三人いれば太平だという段と同じ方向で、こちらは多すぎることの害として述べられています。組織論として、今も通じる指摘です。

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官精権分散責任
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