呻吟語 / 外篇・治道・慈母の子を愛するが如し
民胞物與子厚,胸中合下有這段著痛著癢,心方說出此等語。不然,只是做戲的一殷,雖是學哭學笑,有甚悲喜?故天下事只是要心真。二帝三王親親、仁民、愛物,不是向人學得來,亦不是見得道理當如此。曰親、曰仁、曰愛,看是何等心腸,只是這點念頭懇切殷濃,至誠惻怛,譬之慈母愛子,由不得自家。所以有許多生息愛養之政。悲夫!可為痛哭也己。
新字:民胞物与子厚,胸中合下有這段著痛著癢,心方説出此等語。不然,只是做戯的一殷,雖是学哭学笑,有甚悲喜?故天下事只是要心真。二帝三王親親、仁民、愛物,不是向人学得来,亦不是見得道理当如此。曰親、曰仁、曰愛,看是何等心腸,只是這点念頭懇切殷濃,至誠惻怛,譬之慈母愛子,由不得自家。所以有許多生息愛養之政。悲夫!可為痛哭也己。
書き下し
民は胞、物は與とは子厚なり。胸中に合下此の段の痛みに著き癢みに著く有りて、心方めて此等の語を說き出だす。然らずんば、只だ是れ戲を做すの一般にして、是れ哭を學び笑ひを學ぶと雖も、甚の悲喜か有らん。故に天下の事は只だ是れ心を真にするを要す。二帝三王の親を親しみ、民を仁しみ、物を愛するは、是れ人に向かひて學び得來たるにあらず、亦た是れ道理當に此の如くなるべしと見得たるにあらず。親と曰ひ、仁と曰ひ、愛と曰ふは、看るに是れ何等の心腸ぞ。只だ是れ這の點の念頭懇切殷濃にして、至誠惻怛なること、之を慈母の子を愛するに譬ふれば、自家より得ざるなり。所以に許多の生息愛養の政有り。悲しいかな、痛哭す可きのみ。
現代語訳
民は同胞であり物は仲間だとは、張横渠の言葉です。胸の中にもともとこの痛みと痒みを自分のものとする心があって、初めてこういう言葉が出てきます。そうでなければ芝居をするのと同じで、泣き方や笑い方を学んでも、何の悲しみや喜びがあるでしょうか。だから天下の事は、ただ心を本物にすることが必要です。二帝三王が親を親しみ民を慈しみ物を愛したのは、人から学んで得たのでも、道理はこうあるべきだと見て取ったのでもありません。親しむ、慈しむ、愛すると言うのは、どんな心でしょうか。ただこの思いが切実で濃く、誠が至って痛むことが、慈母が子を愛するのに譬えれば、自分ではどうにもできないのです。だからこそ多くの生かし養う政治があります。悲しいことです、痛哭すべきことです。
解説

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