呻吟語 / 外篇・品藻・我の字と人の字
巢、由披卷佛、老、莊、列,只是認得我字真,將天地萬物只是成就我。堯、舜、禹、湯、文、武、孔、孟,只是認得人字真,將此身心性命只是為天下國家。
新字:巣、由披巻仏、老、荘、列,只是認得我字真,将天地万物只是成就我。堯、舜、禹、湯、文、武、孔、孟,只是認得人字真,将此身心性命只是為天下国家。
書き下し
巢・由披卷、佛・老・莊・列は、只だ是れ我の字を認め得て真なり。天地萬物を將て只だ是れ我を成就す。堯・舜・禹・湯・文・武・孔・孟は、只だ是れ人の字を認め得て真なり。此の身心性命を將て只だ是れ天下國家の為にす。
現代語訳
巣父や許由、そして仏や老や荘や列は、ただ我という字を本当のものと掴みました。天地万物をただ自分を成し遂げるために使います。堯舜禹湯文王武王孔子孟子は、ただ人という字を本当のものと掴みました。この身も心も性も命も、ただ天下国家のために使います。
解説
諸派の違いを、我と人という二字に還元します。我を掴めば万物が自分のためになり、人を掴めば自分が天下のためになる。方向が正反対です。前に出てきた、聖賢は万物を遂げさせようとして自分の志が遂げられるという段と同じ構図が、学派の分類として示されています。どちらが正しいとは言わず、向きの違いだけが示されます。
この章句が説くこと
我人諸派方向還元
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