呻吟語 / 外篇・品藻・衡を持するが然り
二者如持衡然,這邊低一分,那邊即昂一分,未有毫髮相下者也。
新字:二者如持衡然,這辺低一分,那辺即昂一分,未有毫髪相下者也。
書き下し
二つの者は衡を持するが然るが如し。這邊低きこと一分なれば、那邊即ち昂ること一分なり。未だ毫髮も相下る者有らざるなり。
現代語訳
二つは秤を持つようなものです。こちら側が一分低ければ、あちら側がすぐ一分上がります。毛ほども互いに譲り合うことがありません。
解説
前の段の関係を、秤で説明します。内と外、正と邪は、必ず一方が下がれば他方が上がる。中間もなければ、両方が同時に上がることもありません。だから外の圧力が増したと感じる時は、内が減っているということになります。関係を定量的に示すことで、原因の特定が確実になる一段です。関係を定量的に示すことで、原因の特定が確実になります。
この章句が説くこと
秤反比例内外正邪定量
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、世俗の礼にも人の見ざる処、あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも、放逸に隠処なんどをも蔵くさす無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしるなり、只た人の見る時と同じく、かくすべき処をもかくし、はづべきことをもはづるなり、仏法の中も亦戒律かくのごとし、然あれば道者は内外を論ぜす、明暗を択はず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行すべからざるなり、
-
『呻吟語』内篇・談道・吾が心を内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり吾が身を以て内と為せば、則ち吾が身の外は皆外物なり。故に富貴利達は、生く可く榮ゆ可きも、苟くも道に非ざれば、君子居らず。吾が心を以て内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり。故に貧賤憂慼は、辱む可く殺す可きも、苟くも道ならば、君子辭せず。
-
『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一夜話に云く、今ま世出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に知られんと思ひ、悪事を作して人に知られじと思ふ、是に依て内外不相応のこと出で来たる、あひかまへて内外相応じ、錯まりを悔ゐ、実徳をかくして、外相をかざらず好事をば他人にゆづり、悪事をば己れにむかふる志気あるべきなり、問て云く実徳を蔵し外相を飾らざらんこと、寔とに然るべし、但し仏菩薩は大悲利生を以て本とす、無智の道俗等外相の不善を見て是を謗り難せば、謗僧の罪を感ぜん、実徳を知らずとも、外相を見て貴とび供養せば、一分の福分たるべし、是らの斟酌いかなるべきぞ、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば古人の云く、内ち空しふして外したがふと、云心は、内心は我心なふして、外相は他に随がひもてゆくなり、我が身我が心と云ふ事を一向に忘れて、仏法に入て仏法のおきてに任かせて、行じもてゆけば、内外ともによく今も後もよきなり、仏法の中もそぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは非なり、
-
『呻吟語』内篇・談道・只だ內と本と有るのみ內外本末交ごも相培養す、此の語は余の未だ喻らざる所なり。只だ內と本と有るのみ。那の外と末とは張主し得ること甚ぞ。