呻吟語 / 外篇・品藻・自家を中間に搭す
世俗見識,狃於傳習之舊,不辯是非;安於耳目之常,遂為依據。教之則藐不相入,攻之則牢不可破;淺庸卑陋而不可談王道。自秦、漢、唐、宋以彩,創業中興,往往多坐此病。故禮樂文章,因陋就簡,紀綱法度,緣勢因時。二帝三王旨趣不曾試嘗,邈不入夢寐,可為流涕者,此輩也已。私見識,利害榮辱橫於胸次,是非可否迷其本真,援引根據亦足成一家之說,附會擴充盡可眩眾人之聽。秦皇本游觀也,而托言巡狩四岳;漢武本窮兵也,而托言張皇六師。道自多歧,事有兩端,善辯者不能使服,不知者皆為所惑。是人也設使旁觀,未嘗不明,惟是當局,便不除己,其流之弊,至於禍國家亂世道而不顧,豈不大可憂大可懼哉?故聖賢蹈險履危,把自家搭在中間;定議決謀,把自家除在外面,即見識短長不敢自必,不害其大公無我之心也。
新字:世俗見識,狃於伝習之旧,不弁是非;安於耳目之常,遂為依拠。教之則藐不相入,攻之則牢不可破;浅庸卑陋而不可談王道。自秦、漢、唐、宋以彩,創業中興,往往多坐此病。故礼楽文章,因陋就簡,紀綱法度,縁勢因時。二帝三王旨趣不曽試嘗,邈不入夢寐,可為流涕者,此輩也已。私見識,利害栄辱横於胸次,是非可否迷其本真,援引根拠亦足成一家之説,附会擴充尽可眩眾人之聴。秦皇本游観也,而托言巡狩四岳;漢武本窮兵也,而托言張皇六師。道自多歧,事有両端,善弁者不能使服,不知者皆為所惑。是人也設使旁観,未嘗不明,惟是当局,便不除己,其流之弊,至於禍国家乱世道而不顧,豈不大可憂大可懼哉?故聖賢蹈険履危,把自家搭在中間;定議決謀,把自家除在外面,即見識短長不敢自必,不害其大公無我之心也。
書き下し
世俗の見識は、傳習の舊に狃れて、是非を辯ぜず。耳目の常に安んじて、遂に依據と為す。之を教ふれば則ち藐として相入らず、之を攻むれば則ち牢として破る可からず。私の見識は、利害榮辱胸次に橫たはり、是非可否其の本真を迷はす。援引根據も亦た足らく一家の說を成し、附會擴充盡く眾人の聽を眩ます可し。是の人や、設使ひ旁觀せば、未だ嘗て明らかならずんばあらず。惟だ是れ當局すれば、便ち己を除かず。故に聖賢は險を蹈み危を履むには、自家を把りて中間に搭す。議を定め謀を決するには、自家を把りて外面に除く。
現代語訳
世俗の見識は、伝え習ってきた古さに馴れて是非を分けず、耳目の常に安んじてそのまま拠り所とします。教えても弾かれて入らず、攻めても固くて破れません。私の見識は、損得と栄辱が胸に横たわり、是非可否が本来の姿を見失います。引用も根拠も一家の説を成すに足り、こじつけと拡張で大勢の耳を眩ませます。こういう人も、傍から見ていれば分からないことはありません。ただ当事者になると、自分を勘定から除けないのです。だから聖賢は、危険を踏む時には自分を真ん中に据え、議を定め謀を決する時には自分を外に除きます。
解説
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