呻吟語 / 外篇・品藻・後世の宗臣の借口と為す可からず
微子抱祭器歸周,為宗祀也。有宋之封,但使先王血食,則數十世之神靈有托,我可也,箕子可也,但屬子姓者一人亦可也,若曰事異姓以苟富貴而避之嫌,則淺之乎其為識也。惟是箕子可為夷齊,而《洪範》之陳、朝鮮之封,是亦不可以已乎?曰:「繫累之臣,釋囚訪道,待以不臣之禮,而使作賓,固聖人之所不忍負也。此亦達節之一事,不可為後世宗臣借口。」
新字:微子抱祭器帰周,為宗祀也。有宋之封,但使先王血食,則数十世之神霊有托,我可也,箕子可也,但属子姓者一人亦可也,若曰事異姓以苟富貴而避之嫌,則浅之乎其為識也。惟是箕子可為夷斉,而《洪範》之陳、朝鮮之封,是亦不可以已乎?曰:「繋累之臣,釈囚訪道,待以不臣之礼,而使作賓,固聖人之所不忍負也。此亦達節之一事,不可為後世宗臣借口。」
書き下し
微子の祭器を抱きて周に歸するは、宗祀の為なり。宋に封ぜらるる有るは、但だ先王をして血食せしめば、則ち數十世の神靈托する有り。我も可なり、箕子も可なり。但だ子姓に屬する者一人も亦た可なり。若し異姓に事へて以て富貴を苟くし避くるの嫌と曰はば、則ち淺きかな其の識爲るや。惟だ是れ箕子は夷齊と為る可きも、《洪範》の陳、朝鮮の封は、是れ亦た已む可からざるか。曰く、「繫累の臣、囚を釋き道を訪ひ、待つに不臣の禮を以てして賓と作さしむるは、固より聖人の忍びて負かざる所なり。此れも亦た達節の一事にして、後世の宗臣の借口と為す可からず」と。
現代語訳
微子が祭器を抱いて周に帰ったのは、宗廟の祭祀のためです。宋に封じられたのも、先王に供物が絶えなければ、数十代の神霊に寄る辺があるからです。自分でもよく、箕子でもよく、王家の姓を持つ者なら誰でもよかったのです。もし異姓に仕えて富貴を得たと疑われるのを避けるためだと言うなら、その見識は浅いものです。ただ箕子については、伯夷や叔斉のようになれたはずなのに、洪範を述べ朝鮮に封じられたのは、やめられなかったのでしょうか。答えて言う。囚われの臣を解き放ち道を尋ね、臣下としない礼で賓客として遇したのは、聖人が背くに忍びなかったところです。これも節を達した一事であって、後世の旧臣が言い訳にしてよいものではありません。
解説

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