呻吟語 / 外篇・品藻・天地の間惟だ道のみ貴し
世俗都在那爵位上定人品,把那邪正卻作第二著看。今有僕隸乞丐之人,特地做忠孝節義之事,為天地間立大綱常,我當北面師事之;環視達官貴人,似俛首居其下矣。論到此,那富貴利達與這忠孝節義比來,豈直太山鴻毛哉?然則匹夫匹婦未可輕,而下士寒儒其自視亦不可渺然小也。故論勢分,雖抱關之吏,亦有所下以伸其尊。論性分,則堯、舜與途人可揖讓於一堂。論心談道,孰貴孰賤?孰尊孰卑?故天地問惟道貴,天地間人惟得道者貴。
新字:世俗都在那爵位上定人品,把那邪正却作第二著看。今有僕隸乞丐之人,特地做忠孝節義之事,為天地間立大綱常,我当北面師事之;環視達官貴人,似俛首居其下矣。論到此,那富貴利達与這忠孝節義比来,豈直太山鴻毛哉?然則匹夫匹婦未可軽,而下士寒儒其自視亦不可渺然小也。故論勢分,雖抱関之吏,亦有所下以伸其尊。論性分,則堯、舜与途人可揖譲於一堂。論心談道,孰貴孰賤?孰尊孰卑?故天地問惟道貴,天地間人惟得道者貴。
書き下し
世俗は都て那の爵位の上に在りて人品を定め、那の邪正を把りて卻って第二著と作して看る。今僕隸乞丐の人有りて、特地に忠孝節義の事を做し、天地の間の為に大綱常を立つれば、我當に北面して之に師事すべし。環りて達官貴人を視れば、俛首して其の下に居るに似たり。故に勢分を論ずれば、關を抱くの吏と雖も、亦た下る所有りて以て其の尊を伸ぶ。性分を論ずれば、則ち堯・舜と途人と一堂に揖讓す可し。天地の間惟だ道のみ貴し。天地の間の人は惟だ道を得たる者のみ貴し。
現代語訳
世俗はみな爵位の上で人品を定め、正邪のほうは二の次として見ます。今もし下働きや物乞いの人が、進んで忠孝節義の行いをし、天地のために大きな綱常を立てたなら、私は北を向いて師として仕えるべきです。見回して高官や貴人を見れば、頭を下げてその下にいるようなものです。立場で論ずれば、門番の役人でも下る相手があって尊さを伸ばします。本性で論ずれば、堯舜と道行く人が同じ堂で挨拶を交わせます。天地のあいだでただ道だけが貴く、天地のあいだの人ではただ道を得た者だけが貴いのです。
解説

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『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
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『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
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『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
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『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
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『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
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『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。