呻吟語 / 外篇・品藻・堯舜の世に之れ無し
功業之士,清虛者以為粗才,不知堯、舜、禹、湯、臯、夔、稷、契功業乎?清虛乎?飽食暖衣而工騷墨之事,話玄虛之理,謂勤政事者為俗吏,謂工農桑者為鄙夫,此敝化之民也,堯、舜之世無之。
新字:功業之士,清虚者以為粗才,不知堯、舜、禹、湯、皋、夔、稷、契功業乎?清虚乎?飽食暖衣而工騷墨之事,話玄虚之理,謂勤政事者為俗吏,謂工農桑者為鄙夫,此敝化之民也,堯、舜之世無之。
書き下し
功業の士は、清虛なる者は以て粗才と為す。知らず、堯・舜・禹・湯・臯・夔・稷・契は功業か、清虛か。飽食暖衣して騷墨の事に工みに、玄虛の理を話し、政事に勤むる者を謂ひて俗吏と為し、農桑に工みなる者を謂ひて鄙夫と為すは、此れ敝化の民なり。堯・舜の世に之れ無し。
現代語訳
功業を立てる士を、清らかで虚静を尊ぶ者は粗い才だと見なします。しかし知らないのです。堯舜禹湯や皋陶や夔や后稷や契は、功業の人でしょうか、清虚の人でしょうか。飽きるほど食べ暖かく着て、詩文に巧みで玄妙な理を語り、政務に勤める者を俗吏と呼び、農や養蚕に長けた者を田舎者と呼ぶ。これは廃れた教化の民です。堯舜の世にはいませんでした。
解説
実務に長けた人を粗才と見なす風潮を、古代の聖人の名を並べて崩します。彼らは功業の人か清虚の人か、と。答えは明らかです。そして詩文と玄理を語りながら実務を見下す者を、廃れた教化の民と呼びます。高踏的な立場から実務を見下す態度への、正面からの批判になっています。高踏的な立場から実務を見下す態度への、正面からの批判です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
功業清虚実務高踏批判
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