塩鉄論 / 遵道篇
丞相史曰:「說西施之美無益於容、道堯、舜之德無益於治。今文學不言所為治、而言以治之無功、猶不言耕田之方、美富人之囷倉也。夫欲粟者務時、欲治者因世。故商君昭然獨見存亡不可與世俗同者、為其沮功而多近也。庸人安其故、而愚者果所聞。故舟車之治、使民三年而後安之。商君之法立、然後民信之。孔子曰:『可與共學、未可與權。』文學可令扶繩循刻、非所與論道術之外也。」
新字:丞相史曰:「説西施之美無益於容、道堯、舜之徳無益於治。今文学不言所為治、而言以治之無功、猶不言耕田之方、美富人之囷倉也。夫欲粟者務時、欲治者因世。故商君昭然独見存亡不可与世俗同者、為其沮功而多近也。庸人安其故、而愚者果所聞。故舟車之治、使民三年而後安之。商君之法立、然後民信之。孔子曰:『可与共学、未可与権。』文学可令扶縄循刻、非所与論道術之外也。」
書き下し
丞相史曰く、西施の美を說くは容に益無く、堯・舜の德を道うは治に益無し。今文學は治を為す所を言わずして、以て之を治むるの功無きを言う、猶お耕田の方を言わずして、富人の囷倉を美とするがごとし。夫れ粟を欲する者は時を務め、治を欲する者は世に因る。故に商君の昭然として獨り存亡を見て世俗と同じくすべからざる者は、其の功を沮みて近きを多しとするが為なり。庸人は其の故に安んじ、愚者は聞く所を果とす。故に舟車の治は、民をして三年にして後に之に安んぜしむ。商君の法立ちて、然る後に民之を信ず。孔子曰く、『與に共に學ぶべきも、未だ與に權るべからず』と。文學は繩を扶け刻に循わしむべし、與に道術の外を論ずる所に非ざるなり。
現代語訳
丞相史が言った。「西施の美しさを語っても自分の容姿の役には立たず、堯舜の徳を語っても治世の役には立たない。いま文学は、どうやって治めるかを言わずに、いまの治め方には成果がないと言う。それは耕し方を語らずに、金持ちの倉を褒めているようなものだ。そもそも穀物が欲しい者は時機に努め、治めたい者は今の世に即す。商君が明らかに一人だけ存亡の行方を見通し、世間と同じにできなかったのは、目先の利を多く見て功を妨げる者がいたからだ。凡庸な者は今のままに安んじ、愚かな者は聞いたことを結論としてしまう。だから舟や車の制度は、民が慣れるまでに三年かかった。商君の法が立って、その後にはじめて民はそれを信じた。孔子は言った、ともに学ぶことはできても、ともに臨機の判断をすることはできない、と。文学には墨縄を支えて刻み目に従わせることはできても、定石の外を論じる相手ではない」
解説
この章句が説くこと
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