呻吟語 / 外篇・聖賢・聖人に聖人底の積累有り
堯、舜雖是生知安行,然堯、舜自有堯、舜工夫。學問但聰明睿智,千百眾人豈能不資見聞,不待思索?朱文公云:聖人生知安行,更無積累之漸。聖人有聖人底積累,豈儒者所能測識哉?
新字:堯、舜雖是生知安行,然堯、舜自有堯、舜工夫。学問但聰明睿智,千百眾人豈能不資見聞,不待思索?朱文公云:聖人生知安行,更無積累之漸。聖人有聖人底積累,豈儒者所能測識哉?
書き下し
堯・舜は是れ生知安行なりと雖も、然れども堯・舜自ら堯・舜の工夫有り。學問は但だ聰明睿智なるも、千百の眾人豈に能く見聞に資らず、思索を待たざらんや。朱文公云ふ、聖人は生知安行にして、更に積累の漸無しと。聖人に聖人底の積累有り、豈に儒者の能く測識する所ならんや。
現代語訳
堯や舜は生まれつき知り安んじて行う人でしたが、それでも堯舜には堯舜なりの工夫がありました。学問はただ聡明で智恵深いだけではなく、千人万人の中の誰が見聞に頼らず思索を待たずにいられるでしょうか。朱熹は、聖人は生まれつき知り安んじて行うので、積み重ねの段階は無いと言いました。聖人には聖人なりの積み重ねがあります。どうして儒者に測り知れるでしょうか。
解説
生まれつきの聖人にも積み重ねがあると主張し、朱熹の説に異を唱えます。生知安行だから積み重ねが無い、というのは外から見た話にすぎない。聖人には聖人なりの段があり、それは下から測れないというのです。権威に対して遠慮なく異を唱える姿勢が、ここでも現れた一段になっています。権威に遠慮なく異を唱える姿勢が、ここでも現れています。
この章句が説くこと
生知積累朱熹異論段階
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