呻吟語 / 外篇・聖賢・眾人自ら聖人に異なる
聖人與眾人一般,只是盡得眾人的道理,其不同者,乃眾人自異於聖人也。
新字:聖人与衆人一般,只是尽得衆人的道理,其不同者,乃衆人自異於聖人也。
書き下し
聖人と眾人と一般なり。只だ是れ眾人の道理を盡くし得るのみ。其の同じからざる者は、乃ち眾人自ら聖人に異なるなり。
現代語訳
聖人と大勢の人は同じです。ただ大勢の人が持つ道理を尽くしきっているだけです。違っているのは、大勢の人のほうが聖人と違ってしまっているのです。
解説
聖人と常人の差を、持っているものの違いではなく尽くし方の違いに置きます。同じ道理を、聖人は尽くし、常人は尽くさない。だから違うのは常人の側だ、と。主語を入れ替えることで、聖人が特別なのではなく常人が外れているという構図になります。到達の可能性を開く一段です。主語を入れ替えて、到達の可能性を開いた一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
聖凡同一尽くす主語可能性
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