呻吟語 / 内篇・應務・背後の一寸を見る
見前面之千里,不若見背後之一寸。故達現非難,而反觀為難;見見非難,而見不見為難;此舉世之所迷,而智者之獨覺也。
新字:見前面之千里,不若見背後之一寸。故達現非難,而反観為難;見見非難,而見不見為難;此舉世之所迷,而智者之独覚也。
書き下し
前面の千里を見るは、背後の一寸を見るに若かず。故に達現は難きに非ずして、反觀を難しと為す。見を見るは難きに非ずして、見ざるを見るを難しと為す。此れ舉世の迷ふ所にして、智者の獨り覺る所なり。
現代語訳
前方の千里を見るのは、背後の一寸を見るのに及びません。だから遠くを見通すのは難しくなく、振り返って自分を観るのが難しい。見えるものを見るのは難しくなく、見えないものを見るのが難しい。これが世を挙げて迷うところであり、智者だけが気づくところです。
解説
視野の広さではなく、向きを問題にします。千里先を見通せる人でも、自分の背後の一寸は見えない。そして二つの難しさが並べられます。振り返って自分を観ること、見えないものを見ること。どちらも前方を遠く見る力とは別の能力です。洞察力のある人ほど前ばかり見ているという指摘で、自己認識の難しさを距離の比喩で示した一段になっています。
この章句が説くこと
視野向き反観自己盲点
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