呻吟語 / 内篇・修身・更に別個の事に幹らず
自家身子,原是自己心去害他,取禍招尤,陷於危敗,更不幹別個事。
新字:自家身子,原是自己心去害他,取禍招尤,陥於危敗,更不幹別個事。
書き下し
自家の身子は、原と是れ自己の心去りて他を害す。禍を取り尤を招き、危敗に陷るは、更に別個の事に幹らず。
現代語訳
自分の身は、もともと自分の心が出て行って傷つけるものです。禍を招き咎めを受け、危うく敗れるのは、他の何とも関わりがありません。
解説
身を害するのは外の敵ではなく自分の心だと言い切ります。自分の心が出て行って自分の身を傷つけるという言い方が独特で、心と身を二つに分けたうえで、加害者を心の側に置いています。前に出てきた、我を滅ぼすのは我だという段と同じ主張ですが、こちらは心と身の関係として描き直されています。外に敵を探す目を、一行で自分の内側へ折り返しています。

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自害心身責任原因
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