呻吟語 / 内篇・修身・我は是れ堯舜なるか
世人糊塗,只是抵死沒自家不是,卻不自想,我是堯、舜乎?果是堯、舜,真是沒一毫不是?我若是湯武,未反之前也有分毫錯誤。如何盛氣拒人,巧言飾已,再不認一分過差耶?
新字:世人糊塗,只是抵死没自家不是,却不自想,我是堯、舜乎?果是堯、舜,真是没一毫不是?我若是湯武,未反之前也有分毫錯誤。如何盛気拒人,巧言飾已,再不認一分過差耶?
書き下し
世人の糊塗は、只だ是れ死に抵るまで自家の不是沒きことにして、卻って自ら想はず、我は是れ堯・舜なるか。果たして是れ堯・舜ならば、真に是れ一毫の不是沒きか。我若し是れ湯武ならば、未だ反らざるの前にも也た分毫の錯誤有り。如何ぞ盛氣もて人を拒み、巧言もて己を飾り、再び一分の過差を認めざるや。
現代語訳
世の人の愚かさは、死ぬまで自分に非が無いことにして、こう考えてみないことです。私は堯や舜でしょうか。仮に堯や舜だとして、本当に毛ほどの非も無いのでしょうか。私が湯王や武王だとしても、立ち返る前には毛ほどの誤りがありました。それなのにどうして気を盛んにして人を拒み、巧みな言葉で自分を飾り、一分の過ちすら認めないのでしょうか。
解説
非を認めない人に、では自分は堯舜かと問い返します。しかも仮に堯舜だとしても毛ほどの非も無いのか、と念を押す。逃げ道を二重に塞いだ問いです。そして気を盛んにして拒み、巧言で飾るという具体的な仕草を描いて終わります。前に出てきた、認めれば二つの過ちが消えるという段と同じ主題を、より感情的な調子で書いた一段です。
この章句が説くこと
非弁解堯舜巧言認める
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