呻吟語 / 内篇・修身・怨尤の兩字
吾輩終日不長進處,只是個怨尤兩字,全不反己。聖賢學問,只是個自責自盡,自責自盡之道原無邊界,亦無盡頭。若完了自家分數,還要聽其在天在人,不敢怨尤。況自家舉動又多鬼責人非底罪過,卻敢怨尤耶?以是知自責自盡底人,決不怨尤;怨尤底人,決不肯自責自盡。吾輩不可不自家一照看,才照看,便知天人待我原不薄,惡只是我多慚負處。
新字:吾輩終日不長進処,只是個怨尤両字,全不反己。聖賢学問,只是個自責自尽,自責自尽之道原無辺界,亦無尽頭。若完了自家分数,還要聴其在天在人,不敢怨尤。況自家舉動又多鬼責人非底罪過,却敢怨尤耶?以是知自責自尽底人,決不怨尤;怨尤底人,決不肯自責自尽。吾輩不可不自家一照看,才照看,便知天人待我原不薄,悪只是我多慚負処。
書き下し
吾輩終日長進せざる處は、只だ是れ個の怨尤の兩字にして、全く己に反らざるなり。聖賢の學問は、只だ是れ個の自ら責め自ら盡くすなり。自ら責め自ら盡くすの道は原と邊界無く、亦た盡頭無し。若し自家の分數を完うせば、還た其の天に在り人に在るを聽くを要し、敢へて怨尤せず。是を以て知る、自ら責め自ら盡くす底の人は、決して怨尤せず。怨尤する底の人は、決して自ら責め自ら盡くすを肯んぜざることを。
現代語訳
我々が一日中伸びないのは、ただ怨むと咎めるの二字のせいで、まるで自分に立ち返らないからです。聖賢の学問はただ、自分を責め自分を尽くすことです。自分を責め自分を尽くす道には、もともと境界も終わりもありません。もし自分の分を全うしたなら、あとは天にあり人にあることに任せて、あえて怨んだり咎めたりしません。だから分かります。自分を責め自分を尽くす人は決して怨まず咎めない。怨み咎める人は、決して自分を責め尽くそうとしない、と。
解説
怨と尤の二字を、伸びない原因として名指しします。そして自責と自尽には終わりが無いのだから、そちらに向かっていれば怨む暇が無いという構造を示します。二つは同時に成り立たない、という結論が要点です。前に出てきた、人を責める時間はどこから出ているのかという段と、同じ論法が使われています。怨むことと自ら尽くすことは、同時に成り立ちません。
この章句が説くこと
怨尤自責自尽両立時間
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・修身・時時自ら反れば才德進まざるの理無し學者は事事自ら責むるを要す、慎みて人を責むる無かれ。人我が意に可ならざるは、自ら是れ我に量無きなり。我人の意に可ならざるは、自ら是れ我に能無きなり。時時自ら反らば、才德進まざるの理無し。
-
『呻吟語』内篇・問學・天を格し物を動かす處天は是れ我が底の天、物は是れ我が底の物なり。至誠の通ずる所、感格せざる無し。而るに乃ち之と扞隔抵牾するは、只だ是れ自ら修むるの功未だ至らざるなり。自ら修めて天を格し物を動かす處に到る、方に是れ學問、方に是れ工夫なり。此に至らざる者は、自ら愧ぢ自ら責むるに暇あらず。豈に又た個の怨尤底の意思を萌し出だす可けんや。
-
『呻吟語』内篇・修身・只だ自家の身上に在りて做す或るひと問ふ、「怨みず尤めずと了はらば、恐らくは天に事へ人に處る上に更に心を留むるを要せんか否か」と。曰く、「這の天人の兩項は、千頭萬緒なり、如何ぞ照管し得來たらん。個の簡便の法有り、只だ自家の身上に在りて做す。一念・一言・一事都て點檢し得て、我に分毫の是ならざる沒くんば、那の禍福毀譽都て理會するを須ひず。我に禍を求むるの道無くして禍來たらば、自ら天の耽錯有り。我に毀を致すの道無くして毀來たらば、自ら人の耽錯有り。我と全く干涉せず」と。
-
『呻吟語』内篇・修身・愈いよ點檢すれば愈いよ非有るを覺ゆ愈いよ進修すれば愈いよ長ぜざるを覺え、愈いよ點檢すれば愈いよ非有るを覺ゆ。何ぞや。人と作るに意を留めざれば、自家盡く看過し得。只だ日日意を留めて上に向かへば、自家都て是れ病痛なるを看得。初頭は只だ人欲中の過失を見得、久久に到りて又た天理中の過失を見得。天理の過失無きに到れば則ち中行なり。故に學者の一善有るを以て自ら多しとし、一過を寡くするを以て自ら幸ひとするは、皆な志無き者なり。急行する者は只だ道の遠くして足の前まざるを見、急耘する者は只だ草の多くして鋤の利ならざるを見る。
-
『呻吟語』内篇・修身・能く愧ぢ能く奮へば聖人に至る可し士君子人と作りて長進せざるは、只だ是れ心を用ひず、力を著けざればなり。其の心を用ひず力を著けざる所以は、只だ是れ愧ぢず奮はざればなり。能く愧ぢ能く奮はば、聖人にも至る可し。
-
『呻吟語』内篇・修身・性分の固有と職分の當為學者は只だ性分の固有する所、職分の當に為すべき所を把りて、時時心に留め、件件努力すれば、便ち駸駸乎として聖賢の域たり。此の二つの者に非ざれば、皆な是れ外物に對し、皆な是れ妄りに為すなり。