呻吟語 / 内篇・修身・善く自ら愛する者も恣縱ならしむる無し
恣縱既成,不惟禮法所不能制,雖自家悔恨,亦制自家不得。善愛人者,無使恣縱;善自愛者,亦無使恣縱。
新字:恣縦既成,不惟礼法所不能制,雖自家悔恨,亦制自家不得。善愛人者,無使恣縦;善自愛者,亦無使恣縦。
書き下し
恣縱既に成らば、惟だ禮法の制する能はざる所のみならず、自家悔恨すと雖も、亦た自家を制し得ず。善く人を愛する者は、恣縱ならしむる無し。善く自ら愛する者も、亦た恣縱ならしむる無し。
現代語訳
勝手気ままが身についてしまえば、礼法で抑えられないだけでなく、自分で悔やんでも自分を抑えられません。人を善く愛する者は、相手を勝手気ままにさせません。自分を善く愛する者も、自分を勝手気ままにさせません。
解説
甘やかしを、愛の不足として扱います。勝手気ままが固まれば、外からの規則も本人の後悔も効かなくなる。だから先に止めるのが愛だというのです。そして同じ理屈を自分にも当てます。自分を大切にするなら、自分を甘やかさない。人への接し方と自分への接し方を一つの原理で貫いた一段になっています。止めるのは冷たさではなく、愛の一部だという見方です。
この章句が説くこと
放縦愛甘やかし抑制自愛
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