呻吟語 / 内篇・修身・一たび腳を失して千古の恨と為る
《氓》之詩,悔恨之極也,可為士君子殷鑒,當三復之。唐詩有云:「兩落不上天,水覆難再收。」又近世有名言一偶云:「一失腳為千古恨,再回頭是百年身。」此語足道《氓》詩心事,其曰亦已焉哉。所謂何嗟及矣,無可奈何之辭也。
新字:《氓》之詩,悔恨之極也,可為士君子殷鑒,当三復之。唐詩有云:「両落不上天,水覆難再収。」又近世有名言一偶云:「一失腳為千古恨,再回頭是百年身。」此語足道《氓》詩心事,其曰亦已焉哉。所謂何嗟及矣,無可奈何之辞也。
書き下し
《氓》の詩は、悔恨の極みなり。士君子の殷鑒と為す可し、當に三たび之を復すべし。唐詩に云ふ有り、「兩落つれば天に上らず、水覆れば再び收め難し」と。又た近世に名言一偶有りて云ふ、「一たび腳を失して千古の恨と為り、再び頭を回らせば是れ百年の身」と。此の語は足らく《氓》詩の心事を道ふ。其の亦た已んぬる哉と曰ふは、所謂る何ぞ嗟くに及ばんや、無可奈何の辭なり。
現代語訳
詩経の氓の詩は、悔恨の極みです。士君子の戒めの鏡とすべきで、三度繰り返し読むべきです。唐詩に、落ちたものは天に上らず、こぼれた水は再び収めがたいとあります。また近ごろの名句の対に、ひとたび足を踏み外せば千年の恨みとなり、振り返った時にはもう百年の身だ、とあります。この言葉は氓の詩の心をよく言い当てています。もうこれまでだと言うのは、嘆いても追いつかないという、どうにもならない言葉です。
解説
取り返しのつかなさを、三つの言葉を重ねて描きます。落ちた物、こぼれた水、そして踏み外した一歩。最後の対句がとりわけ有名で、振り返った時にはもう老いているという時間の残酷さまで含みます。氓の詩は誤った相手に添って悔いる女性の歌で、それを士君子の鏡とするところに、教訓の当て方の広さが表れています。取り返しのつかない一歩を、踏み出す前に見よということです。
この章句が説くこと
悔恨不可逆戒め時間選択
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