呻吟語 / 内篇・修身・寡言者のみ過ち寡し
惟聖賢終日說話無一字差失。其餘都要擬之而後言,有餘,不敢盡,不然未有無過者。故惟寡言者寡過。
新字:惟聖賢終日説話無一字差失。其余都要擬之而後言,有余,不敢尽,不然未有無過者。故惟寡言者寡過。
書き下し
惟だ聖賢のみ終日話を說きて一字の差失無し。其の餘は都て之を擬して而る後に言ふを要す。餘り有るも、敢へて盡くさず。然らずんば未だ過ち無き者有らず。故に惟だ寡言者のみ過ち寡し。
現代語訳
聖賢だけが一日中話して一字の誤りもありません。それ以外の人はみな、考えてから言う必要があります。余りがあっても、言い尽くそうとしない。そうでなければ、過ちの無い人はいません。だから言葉の少ない人だけが過ちも少ないのです。
解説
言葉の過ちを避ける方法を、量の問題として結論づけます。考えてから言うこと、言い尽くさないこと。そして最後は、言葉が少ない人だけが過ちも少ないという単純な結びです。聖賢でない自覚を前提にしているので、謙遜としてではなく実務的な対策として読めます。前に出てきた、余りを残せという段の繰り返しでもあります。
この章句が説くこと
寡黙言葉過ち慎み余り
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