呻吟語 / 内篇・修身・業は日行の事數を記す
業刻木如鋸齒,古無文字,用以記日行之事數也。一事畢則去一刻,事俱畢則盡去之,謂之修業。更事則再刻如前。大事則大刻,謂之大業;多事則多刻,謂之廣業。士農工商所業不同,謂之常業。農為士則改刻,謂之易業。古人未有一生無所業者,未有一日不修業者,故古人身修事理而無怠惰荒寧之時,常有憂勤惕勵之志。一日無事則一日不安,懼業之不修而曠日之不可也。今也昏昏蕩蕩,四肢不可收拾,窮年終日無一猷為,放逸而入於禽獸者,無業之故也。人生兩間,無一事可見,無一善可稱,資衣藉食於人而偷安惰行以死,可羞也已。
新字:業刻木如鋸齒,古無文字,用以記日行之事数也。一事畢則去一刻,事倶畢則尽去之,謂之修業。更事則再刻如前。大事則大刻,謂之大業;多事則多刻,謂之広業。士農工商所業不同,謂之常業。農為士則改刻,謂之易業。古人未有一生無所業者,未有一日不修業者,故古人身修事理而無怠惰荒寧之時,常有憂勤惕勵之志。一日無事則一日不安,懼業之不修而曠日之不可也。今也昏昏蕩蕩,四肢不可収拾,窮年終日無一猷為,放逸而入於禽獣者,無業之故也。人生両間,無一事可見,無一善可称,資衣藉食於人而偷安惰行以死,可羞也已。
書き下し
業は木を刻むこと鋸齒の如し。古は文字無く、用て日行の事數を記すなり。一事畢はれば則ち一刻を去り、事俱に畢はれば則ち盡く之を去る。之を業を修むと謂ふ。大事は則ち大いに刻む、之を大業と謂ふ。多事は則ち多く刻む、之を廣業と謂ふ。古人は未だ一生業とする所無き者有らず、未だ一日業を修めざる者有らず。一日事無ければ則ち一日安んぜず、業の修まらざるを懼れて日の可ならざるなり。
現代語訳
業とは、木を鋸の歯のように刻むことです。昔は文字が無く、これで一日にすべき事の数を記しました。一つ終われば一つ刻みを削り、すべて終われば全部削ります。これを業を修めると言います。大きな事なら大きく刻み、これを大業と言います。多くの事なら多く刻み、これを広業と言います。昔の人で、一生かけて業とするものが無い者はおらず、一日として業を修めない者もいませんでした。一日何もしなければその一日が落ち着かず、業が修まらないことを恐れ、一日が無駄になることを恐れたのです。
解説
この章句が説くこと
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