呻吟語 / 内篇・修身・餘り有れども敢へて盡くさず
古人慎言,每云「有餘不敢盡」。今人只盡其餘,還不成大過。只是附會支吾,心知其非而取辯於口,不至屈人不止,則又盡有餘者之罪人也。
新字:古人慎言,毎云「有余不敢尽」。今人只尽其余,還不成大過。只是附会支吾,心知其非而取弁於口,不至屈人不止,則又尽有余者之罪人也。
書き下し
古人の言を慎むや、每に「餘り有れども敢へて盡くさず」と云ふ。今人は只だ其の餘りを盡くすも、還た大過と成さず。只だ是れ附會支吾し、心に其の非を知りて口に辯を取り、人を屈するに至らずんば止まざれば、則ち又た餘りを盡くす者の罪人なり。
現代語訳
昔の人が言葉を慎むときは、いつも、余りがあっても言い尽くさないと言いました。今の人はただ余りまで言い尽くしますが、それでも大きな過ちにはなりません。ただ、こじつけて言い繕い、心では間違いだと分かっていながら口先で言い負かそうとし、相手を屈服させるまでやめないなら、それは言い尽くす者よりさらに罪深い人です。
解説
言葉の過ちを三段に分けます。余りを残さず言い尽くすのは、まだ大過ではない。本当に罪深いのは、間違いだと分かっていながら言い負かそうとすることです。議論の勝ち負けが目的になった瞬間に、言葉は嘘の道具になります。相手を屈服させるまでやめないという描写が具体的で、議論好きの落とし穴を正確に言い当てています。
この章句が説くこと
言葉議論詭弁慎み勝敗
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