呻吟語 / 内篇・修身・我の容れ難きなり
乾坤盡大,何處容我不得?而到處不為人所容,則我之難容也。眇然一身而為世上難容之人,乃號於人曰:「人之不能容我也。」吁!亦愚矣哉。
新字:乾坤尽大,何処容我不得?而到処不為人所容,則我之難容也。眇然一身而為世上難容之人,乃号於人曰:「人之不能容我也。」吁!亦愚矣哉。
書き下し
乾坤盡く大なり、何處か我を容れ得ざらん。而るに到る處人の容るる所と為らざれば、則ち我の容れ難きなり。眇然たる一身にして世上難容の人と為り、乃ち人に號びて曰く、「人の我を容るる能はざるなり」と。吁、亦た愚なるかな。
現代語訳
天地はこれほど大きいのに、どこに自分を容れられない場所があるでしょうか。それなのに行く先々で人に受け入れられないのなら、それは自分のほうが受け入れにくいのです。ちっぽけな一身でありながら世の中が受け入れ難い人になり、それでいて人に向かって、みんなが自分を受け入れてくれないと叫ぶ。ああ、愚かなことです。
解説
どこへ行っても受け入れられないなら、原因は環境ではなく自分にある。実に単純な推論ですが、当人にはなかなか見えません。一か所なら相手のせい、二か所なら偶然、しかし行く先々でとなれば共通項は自分だけです。天地はこれほど大きいという書き出しが効いていて、収まる場所はいくらでもあるのに、という前提から逆算する形になっています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
受容原因自省人間関係環境
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